9/10 沼津大学セミナー「日本国誕生の地は沼津であった」原稿

7/23の沼津大学セミナーの続編です。

今回も、理解を深めるため、あらかじめ原稿をご紹介いたします。


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日本国誕生の地は沼津であった・はじめに





 前回の去る7月23日(木)の講演において、“歴史学的意見を聞きたい”というご要望がありましたので、今回はこの歴史学的な意見に努めたいと思います。また、“[玄]って一体、何ですか?”という声もありました。そこで、この質問について最後に応えようと思いまして――今日は29年前の1986年の11月、わたくしが沼津市平町の渡辺板金所の御主人・渡辺進一氏に本格的な製造を依頼して翌年の8月ごろに完成していただいた模造鐸も引きずり出してきました。銅鐸は鋳造して作成したものですが、この方法ですと高額になりますので、この模造鐸は銅の板金で作りました。この模造鐸は――図1に示すわたくしが“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶ細江町から出土した9口の一つ、滝峯第1号鐸を原寸大にして作成したものです。

 前回の講演で指摘しましたように、「銀河」は「銀漢」とも言います。ゆえに、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と名づけられました。


紀元前3000年頃、中国の五帝時代初頭の黄帝は、東洋最古の医学書『内経』を作ったといわれます。黄帝は子どもが生まれる女性生殖器の研究をおこなったのです。
 当時は、女性生殖器や出産の様子をあらわす文字が存在しませんでした。これゆえ黄帝につかえる史官の倉頡が文字を作ることになったのです。倉頡は頭の天辺のいわゆる“天頂”にめぐってくる銀河の形が〔母体の姿〕に似ているのを注目して、――図2に示す銀河範囲の各部の形状から作ったすべての字は、天頂にめぐってくる「母体の姿に似る銀河」から生まれる――と定める漢字作成原理を発明しました。この漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられました。 ――図2は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が提供されて下さった、すべての文字が作られた銀河の写真です。この銀河を、私は「文字作成銀河」と名づけました。
 “漢字の始祖”と崇拝された倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配しました。

それゆえ、倉頡は次のような3つの掟を破った人物には神罰が下って即座に死刑にすると定めました。


(1) 文字は文字作成銀河から作られたことを暴露した人物


(2) 文字を容易に習得するため、文字作成銀河の各部に名称を付けた人物


(3) 書いた文字が用済みになったならば文字を直ちに消さない人物または消し忘れた人物

 
 この最後の(3)の掟は、紀元前1300年から始まる殷代後半の甲骨文字によって最初に破られました。ですから、紀元前3000年の五帝時代初頭から紀元前1300年までの字形は、(3)の掟のために「文字作成銀河の各部の形状」となりました。ですから紀元前2070年~紀元前1600年までの夏代の文字の字形も「銀河各部の形状」となりました。



 紀元前2050年頃の中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭に中国から文字が伝来しました。ゆえに、前回のわが講演で指摘したように、太安万侶は『古事記』序の冒頭で夏代初頭の文字の伝来と習得を説明し、首尾一貫して「夏代の文字及び楷書の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった」と説明しています。
 中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍夏音を習う」と告げた――という記事があります。ゆえに、遣唐使は――倉頡が定めた(3)の掟によって書いた夏代の文字は直ちに消されてあたかも存在しないことになっているが、実は国家は夏代の文字に精通する巫女や神官を体制のなかに組み入れて厳重に管理し、また楷書の字音に〔夏代の文字の字音〕を付けることを禁止せず多くの人々が用いる状況であったので――、「夏代初頭に伝来した文字」を「夏音」と表現したのです。ですから、私は「夏代初頭にわが国伝来した文字」を「夏音文字」と呼ぶことにしました。
 倉頡が定めた(2)の掟のために、文字作成銀河の各部には名称がありません。名称が無いと不便ですので、私は――図3のごとく、文字作成銀河各部の名称を考えました。


――図3の左上に、私が「十字の銀河」と名づけた銀河があります。「十字の銀河」は五帝時代から秦の始皇帝の紀元前3世紀まで、中国各地の天頂にめぐってきました。また、「十字の銀河」は中期縄文から晩期縄文時代まで、日本列島の天頂にめぐってきました。


 ――図4に示しますように、「十字の銀河」は母体の姿に相似します。「十字の銀河」には〔子宮〕に相当する箇所がありますから、倉頡は――天頂にめぐってきた「十字の銀河」を〔文字作成銀河の各部から作られた、すべての文字を生む母体〕、また「十字の銀河の子宮に相当する箇所」を〔すべての文字が生まれる子宮・産道〕と定めました。


 図5の右側に示すように「十字の銀河」は〔[天][大][王]の夏音文字の字源・字形・字義〕となりました。図5の左側の「契文」は「殷代後半に出現した甲骨文字」のことです。

「金文」は「周代に作られた青銅器の銘文に用いられた文字」のことです。
 倉頡が発明した「すべての文字は十字の銀河を母体にして生まれる」という文字作成原理における「生まれる」は「発明する。考案する」という意味となります。

この意味にもとづいて、『古事記』上巻の国生み説話の「国生み」は「銀河を仰ぎ見て国の名を考えた」と意味し、神生み説話の「神生み」は「神、すなわち優れたものや学術的業績や工夫が発明考案された」と意味するものであったのです。

たとえば神生み説話に登場する「鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船」は「呉の遠征軍の巨大な軍船を浮島原の沼地に追い込んで立ち往生させて撃滅させる、水鳥のごとく敏捷に動き回ることができる堅牢な楠で作った日本軍が発明した軍船」のことであったのです。


第1章 日本建国の〔愛〕の理念が発掘された




 “玄とは”、それは「精密に一度の誤差もなく緯度を測定できる方法」のことです。


この[玄]は夏音文字の学芸体系の基本・基礎・基軸、そして土台となったのです。


 

東熊堂の高尾山古墳の南に、大瀬埼と淡島が所在します。
インターネットで調べると、大瀬埼の緯度は北緯35度01分49秒、淡島の緯度は北緯35度01分59.22秒です。したがって、大瀬崎と淡島は共に北緯35度01分で同緯度です。


この大瀬崎と淡島の同緯度は、図6に示す北極星では測量できません。


高尾山古墳が作られた3世紀の北極星は天の北極から約10度離れていました。ゆえに、当時の北極星は約20度の直径で天の北極を中心にして円を描いていました。ということは、当時の北極星で緯度を計測すると誤差が約20度・約1200分となります。
 

したがって大瀬崎と淡島は1分の緯度の差がなくピッタリと同緯度ですから、誤差が約1200分の北極星では大瀬崎と淡島の同緯度を計測することはできません。


図7に示す〔天頂緯度と子午線をキャッチする方法〕ならば、1分の緯度の差を計測できます。図7の「天頂緯度と子午線をキャッチ」を漢字1字であらわすと、図7の右上に配した[玄]となります。ゆえに、大瀬崎と淡島の同緯度は、図7に示す〔[玄]をキャッチする方法〕ならば測量できます。

図8は去る7月11日に行われた「高尾山古墳を知ろう!」第1弾において、静岡大学人文社会科学部教授の篠原和大氏がおこなった講演で提出された「資料1」にある「沼津市教育委員会2012より転載」と記してあった高尾山古墳の平面図です。
 

高尾山古墳の平面図によって、高尾山古墳は〔[玄]をキャッチする方法〕で測量されて築造されたと断定できます。というのも、当時の誤差が約1200分の北極星で緯度を測定する方法では絶対に高尾山古墳は築造することができないからです。


〔緯度を測定する方法〕は〔北極星〕と〔[玄]のキャッチ〕の二つの方法しか存在しません。すべての時代において緯度を1分の精度まで測量できる北極星は存在しません。しかし、〔[玄]をキャッチする方法〕ならば1分の緯度の差が測量できます。


ですから、高尾山古墳は〔[玄]をキャッチする方法〕を用いて築造されたのです。



図9に示すように、[玄]は鍋蓋の[亠]の下に[幺]が加わる字です。その上部の[亠]は「1分の緯度の差を測定できる天頂緯度と子午線」をあらわし、その下部の[幺]は「娩出期の子ども、つまり頭が誕生した赤ん坊」をあらわします。
 この[幺]について、紀元前4、5世紀に生存した世界的に有名な中国の思想家の老子の教えを説く『老子』の第1章でテーマとして取り上げています。老子は「ゆえに常に無欲して以てその妙を観、常に有欲にしてもってその皦を観る」と述べ、「常に産道を通過する胎児のように無欲であれば人間が有している神秘的な本能で[玄]をキャッチできてこの世に生きる命を手に入れることができるが、常に[玄]をキャッチするのだと欲を有すると[玄]がキャッチできず皦すなわち野晒しの白骨化した骸骨になる」と説いています。つまり、[幺]は[玄]をキャッチする時の「産道を通過して命を手に入れる胎児のように無欲であれ」という心得・鉄則をあらわしています。


図10に示すように、[玄]をキャッチする人のポーズは妊婦のごとくにおなかを前にグーンと突きだして、首輪の中央にある曲玉の感触で“産道を通過する胎児のように無欲になれ”という心得・鉄則を呟いて道に迷って命を失うことを避けていたのです。


図11の左図に示す曲玉が、高尾山古墳から出土しました。
 

したがって、高尾山古墳から出土した曲玉は[幺]の字源である〔[玄]をキャッチする時の心得〕の「娩出期の胎児」をあらわしていたのです。したがって曲玉は、道に迷って見知らぬ土地で野晒しの白骨体にならずに無事に家族が待つ家に帰ることができることを願う呪いの器具すなわち呪具であったのです。
 


高尾山古墳の周溝の一画から出土した土器の年代は、230年頃のものと見られています。
 前回のわが講演で指摘しましたように、中国の正史『三国志』呉書孫権伝は「230年(呉の黄竜二年)、皇帝の孫権は将軍の衛温と諸葛直に夷州と亶州に分かれる東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万であった」と記述します。
 赤壁の戦いで80万の魏軍を2万の兵力で撃破した――その半分の1万の呉の無敵艦隊はわが沼津へ目指したのです。この呉軍の遠征の情報をなんらかの方法で情報をキャッチした東鯷人国は恐怖のルツボと化して、卑弥呼が治める倭人国からの軍の出動を要請することになったのです。これのゆえ東鯷人国は卑弥呼が治める倭人国に属することになり、国名が「日本」と改まったのです。
 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して最も北極星が重視されることになりました。このため、約320年間も中国では〔[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が廃れていました。このため、にわか仕込みの〔[玄]をキャッチする訓練〕で遠征しようとした呉軍は、大海を渡ることが出来なかったのです。ゆえに、8割から9割の兵士たちが大海の藻屑となって消えて呉の遠征軍は壊滅しました。
 

〔[玄]をキャッチする習慣〕が廃れた呉の水軍には日本列島に到着できない事実に気づかず、呉軍が再度来襲するにちがいないという幻想に脅えて、高尾山古墳は作られたのです。つまり、高尾山古墳は呉軍を撃退して新生・日本国が防衛に成功するために作られた墳丘であったのです。だから、高尾山古墳から呉の水軍と戦う武器となる鉄の槍2点、槍鉋1点、鉄の鏃32点が舟の形をした木の棺の中に納められていたのです。これらの出土物は呉の水軍を滅亡せるための呪具であったのです。

 再度呉軍は必ず遠征するにちがいないという恐怖のために、『魏志』倭人伝の魏の正始八年・247年の記事に登場する13歳の壱与が女王として、また、軍王として『魏志』倭人伝の247年の記事に登場する載斯烏越が壱与と結婚して小国・日本に赴任することになったのです。
 前回の講演で解明・証明したように、夏音名の「壱与」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」であり、夏音名の「載斯烏越」は「伊耶那岐命」であったのです。その証拠に、インターネットブログのフリー百科事典『ウィキペディア』は――「東熊堂」という地名は熊野神社(元は熊野堂)に由来する――と記述します。「熊野」といえば、熊野那智大社に祭られる伊耶那美命と、そして熊野速玉大社に祭られる伊耶那岐命です。ゆえに「東熊堂」という地名の由来となった「熊野神社」または「熊野堂」は「伊耶那美命と伊耶那岐命の日本国防衛の呪具を納めた神社またはお堂」であったことになります。
 

呉の遠征軍は中国の正史『後漢書』倭伝末部に記述された「蓬莱の神仙」へ目指しました。「蓬莱の神仙」は「仙人が住む十字の銀河の子宮のような形をした、天高くそびえる山の麓」と意味しました。ゆえに、呉の1万の水軍は伊豆半島のはるか南方から見える富士山を目標にして駿河湾に進入し、高尾山古墳の南にある浮島沼の出入口となる水路を発見して浮島沼で停泊し、そして上陸するにちがいない――という具合に、日本軍は呉軍と戦う第一候補の戦場は蓬莱の神仙郷へと通ずる道の入口となる浮島沼であると考えたのです。ゆえに駿河湾と浮島沼がつながる水路の真正面となる土地に、天頂の神と地の霊力をよび興して呉軍との戦いに勝利を願う高尾山古墳を作ったのです。


高尾山古墳より北方の愛鷹山中腹には、高尾山古墳と時代が合致する84軒の「八兵衛洞遺跡」があります。この遺跡名の「八兵衛洞」は小字つまり遺跡が所在する地名です。
 前回の講演で指摘しましたように、夏音文字の学芸では〔近くの東西南北の4方位と大海を隔てた中国の呉地の東西南北の4方位は同じではない〕と考えていました。この方位観を、中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞下伝にある漢字起源の秘密を伝える記事は「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、文字を作った」と伝えます。この漢字起源記事に登場する「八卦」の[八]が「八兵衛洞」の[八]だったのです。なぜならば、八兵衛洞遺跡の西方の駿河湾の西岸地帯には「神明遺跡」が所在するからです。その遺跡名の「神明」は漢字起源記事に登場する「神明の徳に通じ」の「神明」です。
 

神明遺跡がある静岡県中部は旧東鯷人国・新生日本国でした。天智天皇2年・663年にあった白村江の戦いの秋8月31日の『日本書紀』の記事は――百済王が「大日本の救援将軍廬原君臣が、兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくると言った――書いてあります。この日本の救援将軍の廬原君臣は、神明遺跡が所在する廬原郡に住んでいました。だから、神明遺跡の所在地は新生・日本国であったのです。
 

わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は[兵]の字源を「戈を執る形は戒で、警戒を意味する」と解説します。ゆえに、[兵]は「呉の水軍が遠征してくる様子を警戒する」と意味したことになります。


図12に、『字統』に掲載された[兵]の金文形を示しました。『字統』は[兵]の字形と字義を「斤を両手でさしあげている形。武器をとって戦うものの意」と解説します。金文形の上部の「二つの斤」に代わって、高尾山古墳から出土した〔2点の鉄槍〕が[兵]の字の上部をあらわしたのです。また金文形の[兵]の下部の〔両手〕に代わって、[兵]の下部は〔日本軍が倭国から派遣された兵士たちと旧東鯷人国の兵士たちとで編成されていたこと〕をあらわすものであったのです。
 ゆえに、図13に示す高尾山古墳から出土した武器型出土物の鉄槍2点と鉄鏃32点と鉄鉋1点は[兵]の「武器をとって戦う意」をあらわします。


白川静著『字統』は[衛]の字源解説において「衛は防衛する意である」と指摘します。
 〔[玄]のキャッチ〕の学術では、「天頂緯度の数値と観測地点の地点緯度の数値は同じ」と定めていました。ゆえに、〔[玄]のキャッチ〕では高尾山古墳の真上天辺は「天頂緯度35度07分」ですから、高尾山古墳の緯度も35度07分と同じ数値になると定まっていました。この「同じ」の[同]の夏音文字と楷書の字源は、図14に示す私が「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河であったのです。

「長方形の暗黒天体部」の東隣を私は「激流の銀河」と名づけました。3世紀、八兵衛洞遺跡・高尾山古墳の天頂に「激流の銀河・長方形の暗黒天体部」がめぐってきました。三水偏に[同]を加える[洞]の字を、“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は「疾く流るるなり」と解説します。つまり、[玄]においては「天頂緯度と子午線」を4秒~6秒くらいの寸秒で測定しましたから、「激流の銀河」のイメージのごとく天頂緯度と子午線を疾く測定したのです。ゆえに、『説文解字』は[洞]の字源を「疾く流るるなり」と解説したのです。「激流の銀河」と共に[洞]の字源となる「長方形の暗黒天体部」は「洞穴のごとく真っ黒な銀河部」です。
 以上のごとく、高尾山遺跡の北に所在する遺跡の小字名「八兵衛洞」は、呉の遠征軍を浮島沼に誘導して作戦通りに有利に戦うために蓬莱の仙人たちの生活をささえる山村のごとくに見せかけて作られた日本軍精鋭主力部隊の軍事施設であったことになります。


高尾山古墳の西方の浮島沼の低湿地帯に設営された雌鹿塚遺跡から、武器となる銅鏃が1点出土しました。
図15に示す雌鹿塚遺跡から出土した鳥形木製品における〔鳥の翼〕の部分に注目してください

翼は〔船の形〕に作られています。〔鳥の翼〕と〔鳥の頭部から尾までの体〕は直角に交わっています。
 図16に示すように、鳥形木製品は緯度軸と子午線(経度軸)が直角に交わって〔[玄]のキャッチ〕をあらわします。

だから、〔鳥形木製品〕は『古事記』上巻の神生みに記載された「天鳥船」をあらわす呪具であったのです。前述しましたように、「天鳥船」は「呉の遠征軍の巨大な軍船の呪的な戦力に対抗して勝利するために、浮島沼を泳ぐ水鳥のごとく敏捷に動き回る岩のごとく堅牢な楠で作った日本軍が発明した軍船」でした。
 

図17に示す〔駿河湾の西岸の神明遺跡と大瀬崎・淡島を同緯度線で結ぶ海岸線図〕は、〔船の形〕に相似します。ゆえに、〔駿河湾の地宜〕は「天鳥船」を考案するヒントになったと考えられます。

八兵衛洞遺跡と雌鹿塚遺跡はそれぞれ単体ではなく、両遺跡は高尾山古墳と一体となって呉の遠征軍の襲撃を防衛するコンプレックス(複合体)であったのです。

 『魏志』倭人伝には「夏王朝の皇帝であった少康の王子が、会稽に封ぜられると、断髪・文身して蛟龍の害を避けた」という記事があります。
 

少康の王子のように伊耶那美命と伊耶那岐命は、会稽港から出帆した呉の水軍が遠征してくるという恐怖で脅える東鯷人国に封ぜられました。
 

この「封ぜられる」の[封]の字について、白川静著『字統』は「丰と土と又とに従う。土は土地神たる社主の形。そこに神霊の憑る木として社樹を樹えることを示す。社を樹て、封建するときの儀礼をいう。それで封建の意となる」と解説します。
 高尾山古墳には、大木が植えられていました。最も大きな巨木が、神霊の憑る木の社樹であったのではないでしょうか。巨木の樹齢が合致すれば社樹となりますが、樹齢が合わなければ偶然の一致か、あるいは[封]の字源を知った後人が植樹したことになります。
 

前でも語ったように、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は、高尾山古墳が所在する――「東熊堂」という地名の由来は「熊野堂」であると――と指摘します。ゆえに、高尾山古墳は熊野那智大社の祭神の伊耶那美命と熊野速玉大社の祭神の伊耶那岐命の両人が小国・日本に封ぜられたことを示すお堂」であったのです。

白川静著『字統』は[堂]の字を「土は土壇。土壇を築いて祠所を設けるところを堂という」と解説します。
 高尾山古墳を構成する「前方墳と後方墳」は「土壇」であり、図18に示す「副葬品が納められていた長さ約5mの木棺がおさまっていた祠(穴)」が文字とおり「祠所」となります。

字源を解説する“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[祠]の字源について『礼記』月令の文を引用して「祠るに犠牲を用いず」と解説します。ゆえに、図18に示す祠の副葬品がおさめられていた木棺には、犠牲も死者も葬られていなかったと考えるべきことになります。

 『古事記』上巻の初頭部は、伊耶那岐命と伊耶那美命説話です。
 この伊耶那岐命と伊耶那美命説話の初頭は淤能碁呂島の聖婚説話であり、この説話の末部の文を現代語に訳すると、次のごとくになります。
 「久美度邇興して、水蛭子を生み、この子・水蛭子を葦船に入れて流した。次に淡島を生み、この淡島もまた子の列に入れなかった。」
 

図19は、沼津市の大瀬崎の地宜すなわち平面的に図化した地図の形です。

〔大瀬崎〕の地宜は細長い〔蛭〕の形に相似し、〔大瀬崎の真水を貯える神池〕は〔蛭の血を吸う吸盤〕に相似します。「真水の神池」が「水」、「大瀬の岬」が「蛭の体」に似ています。だから、「大瀬崎」は「水蛭子」と名づけられたのです。「葦船」の[葦]の字は「緯度」の[緯]と同じ[韋]の字部を有します。ゆえに、図16の「天鳥船」と図17に示した「大瀬崎と淡島を同緯度線で結ぶ海岸線」は「葦船」をあらわすことになります。

というのも、雌鹿塚遺跡は葦が茂る低湿地帯に設営されていましたゆえ、この遺跡から出土した鳥形木製品の天鳥船は「葦船」ということになるからです。
 『古事記』は「水蛭子を生み」という文の前に「久美度邇興して」という文を挿入しなります。白川静著『字統』は「興す」の[興]の字源を「酒をふりそそいで、地霊をよび興すことをいう」と解説します。夏音文字の学芸では高尾山古墳の地の霊は、図14に示した高尾山古墳の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」に住む天の神すなわち天頂緯度をキャッチして、小国・日本に勝利をもたらす地の霊をよび興すものであったのです。


だから、「久美度邇」は「[玄]をキャッチして小国・日本の経緯度原点となる高尾山古墳の天頂緯度と子午線を精確に測量する」と意味したのです。というのも、夏音文字の学芸の基本・基礎・基軸は「[玄]をキャッチして天頂緯度線と子午線を精確に測定すること」であったからです。
 ゆえに、〔大瀬崎と淡島〕は〔高尾山古墳を作る時に用いた[玄]をキャッチする緯度測定によって生まれた子〕となったのです。それゆえ、〔[玄]のキャッチ〕によって測量された「高尾山古墳の天頂緯度と子午線が親」、「大瀬崎と淡島は高尾山古墳の子」であったということは、要するに「大瀬崎と淡島は高尾山古墳に付随した聖域」であったのです。

ですから「水蛭子を生み、この子を葦船に入れて流した。次に淡島を生み、この淡島もまた子の列に入れなかった」という説明は「伊耶那美命と伊耶那岐命は小国・日本に赴任したが、小国・日本に封ぜられて治める女王と王になれなかった。というのも、卑弥呼の墓を作る時に起きた徇葬を憎悪する人民の反乱を鎮めるために伊耶那美命は倭女王に選ばれて倭国に帰還することになったからである」という史実を語っていたのです。
 以上からして、現在の緯度の北緯35度07分の熊野堂・高尾山古墳の天頂の緯度は、[玄]のキャッチにおける小国・日本全域の緯度原点となったのです。つまり、北緯35度07分の熊野堂の天頂緯度は、小国・日本が誕生した位置=緯度をあらわしたのです。




図20の左側に、高尾山古墳から出土した銅鏡の図を配しました。その右側に鏡に刻まれていた〔3羽の鳥の絵〕を配しました。この〔鳥〕は〔鴨〕に似ています。
 

図21は、前回のわが講演で説明した、伊耶那美命に憧れる徳川家康の命令で彦根藩・井伊氏が1603年に着工して1622年に完成させた「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵です。この大鳥の上絵は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存します。
 この3千万坪の大鳥の行政区域の南限は「日本建国の〔愛〕の理念を知る川」と表示する「愛知川」です。
 愛知川は高尾山古墳と同じ北緯35度07分となる東近江市の土地を南東から東北の河口へ向かって流れています。したがって、愛知川が流れる東近江市の北緯35度07分の地点は、小国・日本が誕生した高尾山古墳の天頂緯度をあらわすことになったのです。
 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の短歌には、「岡本天皇の御歌一首 并せて短歌」という題詞が付いています。舒明天皇の皇后の宝皇女は後の岡本天皇の皇極・斉明天皇です。前述しました廬原君臣が居住した地域が日本国であったと明記する663年の白村江の戦いがあった2年前の661年の7月、百済救援のために筑紫に赴いた岡本天皇は崩御しました。岡本天皇が皇后であった時代は高尾山古墳が完成した250年より約385年後のことであり、当時は神明遺跡が所在する廬原郡が日本国の範囲であったことが明確に伝えられておりました。



舒明天皇は皇后宝皇女・後の岡本天皇と蘇我入鹿の仲を疑っていました。
   


岡本天皇の御歌一首 并せて短歌
 神代より 生れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ群の 通ひは行けど
 我が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み
 思ひつつ 眠も寝かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を(485番)
 


神代の伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を銅鏡に刻む鴨の絵で〔愛〕と定めて誓ったために、国民はこの世に多数満ち満ちて、人々は味鴨の親子連れの群の光景のように愛睦まじくわたくしの眼の前を通り過ぎますが、わたくしが恋い慕う陛下は、わたくしと蘇我入鹿の仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたくしを抱いてくれません。わたくしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけて一睡もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。

図20の3羽根の鳥の絵と、図22に示す鴨の絵は相似します。

したがって、高尾山古墳から出土した鏡にある鳥の絵は、伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史を今に伝える資料だったのです。ゆえに、高尾山古墳から出土した鏡の鴨の絵は伊耶那美命が小国・日本の人民に〔愛〕が最も大切であると熱心に説き、〔愛〕を国作りの柱にして治める思いをあらわすものであったのです。


7世紀、〔[玄]をキャッチする習慣〕が栄えまた日本国誕生史は最も重大な歴史であると認識されていたために、「高尾山古墳の天頂緯度・北緯35度07分は日本国が誕生した緯度」をあらわすことを岡本天皇・宝皇女は知っていたのです。

 


山のはに あぢ群さわき 行くなれど 我はさぶしゑ 君にしあらねば(486番)

山の端に、味鴨の群が愛睦まじく鳴いて騒ぎ飛んでいきますが、この鴨の群を見ていると、わたくしは寂しくてなりません。あなたはわたくしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたくしを抱いてくれませんもの……。

 

近江道の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のころごろは 恋ひつつもあらむ(487番)
 

近江路の“鳥籠の山”と呼ばれる琵琶湖に浮かぶ沖島のほうに向かって流れる不知哉川、この川の名が“知らない”と示すように、わたくしの心を知ろうともせずにわたくしを疑ってわたくしの言葉を信じないつれないあなたですけども、今日このごろは、わたくしのことを恋しく思っていてくださるのでしょうか。



487番の和歌に登場する「不知哉川」という名にある「知識」の[知]の字源について、白川静著『字統』は「矢に矢誓の意があって、誓約のときに用いるもの。口は、祝祷を収める器の形」と解説します。倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」は図23に示す「十字の銀河の子宮」を、倉頡は〔文字作成銀河各部から作られたすべての文字が生まれる子宮〕と定めました。

ゆえに、図23における「鬼の横顔に似る銀河」は〔誓約する人の横顔〕に見立てられて[矢]の字源となったのです。つまり、「鬼の横顔に似る銀河の両目の視線が十字の銀河の子宮=[玄](天頂緯度線と子午線)を射ぬく」という考えにもとづいて[矢]の字が成立したのです。この[矢]の字については、今日の日に引きずり出してきた模造鐸の中心的機能となっていますので後でまた説明します。「十字の銀河の子宮」は祝い事つまり子どもの誕生を祈祷する天の神でしたから、[口]の字源となったのです。ゆえに、「胎児が生まれる子宮口から膣口までの産道」も[口]の字源だったのです。『説文解字』は[口]の字源を「人の言食する所以なり」と解説して「口の字源が言う食べる人の器官」と限定しますが「子宮口から膣口までの産道」も[口]の字源だったのです。
 要するに、「十字の銀河の子宮」はすべての文字が生まれる子宮ですから――「知識・知能は「十字の銀河」を仰ぎ誓約しまたは祀ることによって与えられるもの」となりました。このような[知]の字源を図23に示しているのです。


前回のわが講演で解明・証明したように、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は前述した『易経』繋辞下伝の漢字起源記事にある「近くはこれを身にとり、遠くはこれを物に取り、ここにおいて始めて八卦を作り」の八卦理論にもとづいて――卑弥呼王朝は「日本列島の東は中国の海岸線の南の方へ伸びる」と考えた錯覚の転回日本列島地理を制定していたことになります。この卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の誤りは、738年に最初に改められました。したがって、738年以前の7世紀に生存した宝皇女は錯覚の転回日本列島地理にもとづいて487番の短歌を作ったことになります。


ゆえに図24は、現在の日本地図の方位規定にもとづかず、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理の転回方位にもとづく地図です。

この地図の左側に、高尾山古墳と同緯度の北緯35度07分の緯度線を加え、この緯度線上に「久美度に興して」の記すポイントを設置しました。
図24の右上のイラストが示すように、琵琶湖の地宜(平面的に図化した地図の形)は〔空を飛翔して地上に降下しない鳥の姿〕に相似します。『説文解字』は[不]の字源を「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」と解説します。ですから、図24に示す高尾山古墳と同緯度の「久美度邇興して」と記した地点から東北に位置する「空を飛翔する鳥の姿に相似する琵琶湖の地宜」は[不]の夏音文字をあらわすことになったのです。

図23の「鬼の横顔に似る銀河」を〔高尾山古墳と同緯度の愛知川の地点〕に見立てると、〔愛知川の河口〕は[口]の字源となる「十字の銀河の子宮」に相当するので〔愛知川河口〕は[知]の夏音文字をあらわします。というのも、――図23において〔「鬼の横顔に似る銀河」の東北に「十字の銀河」が在る」と同じく、〔愛知川の河口は高尾山古墳と同緯度愛知川の地点から東北に在る〕からです。

白川静著『字統』は[哉]の字について「載も哉の意である」と指摘します。ゆえに、[載]と同義の[哉]は「載斯烏越=伊耶那岐命」をあらわしました。ゆえに、――図24における高尾山古墳と同緯度の不知哉川の地点は「夏音名が載斯烏越である伊耶那岐命が高尾山古墳に武器型呪具を納めた」とあらわすことになったのです。

以上からして、宝皇女が和歌に詠んだ「不知哉川」は、後世において「愛知川」と呼ばれることになったのです。
 そして、図25に示す湖上に浮かぶ〔沖島〕は〔鴨の姿〕に相似すると見立てられて、〔飛ぶ鳥の形の琵琶湖の中に籠る山〕ということで、487番の短歌の2句目に登場する「鳥籠の山」であったのです。



『日本書紀』は「花の窟は伊耶那美命が葬られた地」と伝えます。これゆえ、前回のわが講演で指摘した伊耶那岐命がクーデターを起こして熊野那智大社の旧社地の大斎原の玄室から奪った伊耶那美命の棺におさめられていた亡骸は花の窟の地中に埋葬されたことになります。図25に示すように、琵琶湖に浮かぶ沖島の東側を東経136度05分の花の窟の経度線が貫通しています。
 このため、『日本書紀』元正天皇紀は図24に示す〔高尾山古墳と同緯度の久美度邇興しての地点から河口〕までの〔不知哉川の右岸地域一帯の地名〕を「依智」と記載しています。というのも、白川静著『字統』は「神霊の憑りつく状態を依という」と解説するからです。そして、図24右下のイラストで示した「地上に降下する鳥の足を不知哉川の右岸地域一帯に相当すると見立てるイメージ」と図24の左側に示す「高尾山古墳の北緯35度07分の緯度軸と伊耶那美命が葬られた花の窟の東経136度05分の経度軸が交わる状況を伊耶那美命と伊耶那岐命の精霊が降臨するとする解釈」を「智恵」と表現し、不知哉川の右岸地域一帯に鳥の姿となった伊耶那岐命と伊耶那美命の精霊が天から降下して依りついたと信仰されることになったのです。これゆえ、「依りつく」と「智恵」で不知哉川の右岸地域一帯の地名は「依智」と表記されることになったのです。『延喜式』や『和名抄』は不知哉川の右岸地域一帯を「愛智」と表記しました。というのも、地上に降下する鳥の足に相当する不知哉川の右岸地域一帯は「高尾山古墳の緯度軸と花の窟の経度軸が交わるという智恵で知ることができる、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命と日本建国の〔愛〕の理念を受け継いだ伊耶那岐命の精霊が依りつく聖域」と定めて「愛智」と表記したのです。
 そして、最終的に「不知哉川の右岸地域一帯」は「高尾山古墳に埋納された銅鏡に表示された日本建国の〔愛〕の理念を知る川」」と要約されることになって、スッキリと「愛知川」と表記されることになったのです。
 「不知哉川」という名は「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を伊耶那岐命が受け継いだ。この両人の精霊は空を飛翔する鳥となって降臨した川」とあらわすものであったので。しかし、「不知哉」という表記からその由来を解釈するのは極めて難解となりました。このため、容易に意味が通ずる「愛知川」という表記に最終的に定まったのです。


このような事情がありましたから、家康が命令して作成された3千万坪の彦根の大鳥の地上絵の南限は不知哉川・愛知川となったのです。

 以上のごとく、図20に示した高尾山古墳から出土した銅鏡に刻まれる3羽の鴨の絵と岡本天皇が「神代より伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念のために、人民はこの世に多数満ち満ちて、人々は味鴨の親子連れの光景のように愛睦まじい」と詠む485番の長歌は合致します。また「不知哉川」、「依智」と「愛智」という地名、そして「愛知川」という名は〔高尾山古墳に納められた銅鏡の3羽の鴨の絵で日本建国の〔愛〕の理念が提唱されたことが証明できる確かな資料・根拠〕となりますから、伊耶那美命が国作りの柱を〔愛〕と定めて小国・日本を治めたことは明白なる歴史的事実となります。


















第2章 愛、あざやかに永遠であれ





岡本天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇でありまた第37代斉明天皇です。彼女の息子の中大兄皇子は後の第38代天智天皇、弟の大海人皇子は後の第40代天武天皇です。


671年の年末、天智天皇は近江にて没しました。皇太子大友皇子は吉野に隠棲した皇太弟大海人皇子の威をおそれて命を奪おうとして、壬申の乱となりました。近江朝の天智天皇の息子の大友皇子が天智帝と天武帝の中間となる第39代弘文天皇です。


わが国には夏音文字があったと記載する『新唐書』日本伝の記事「後稍夏音を習う」という文の「後」は「壬申の乱の後」を意味しました。この壬申の乱は672年におきました。壬申の乱のとき、大海人皇子は女性と子供と舎人つまり護衛の兵をふくんでわずか50人足らずで吉野を出発して東国へと逃れました。この日の朝、現在の奈良県宇陀郡の榛原駅のすぐ近くの要衝で大海人皇子一行を大伴朴本連大国一行が待っていました。大伴連大国は20人余りの配下と注目すべきことに美濃国の王も従っていました。


近江朝は大海人皇子を暗殺するための部隊を吉野に向けようとしても、大伴連大国が住む高屋の里にある交通の要衝を通過しなければなりませんでした。このため、近江朝は大海人皇子を暗殺することができませんでした。というのも、大伴連大国は伊耶那美命に憧れる東山道・東海道の武士たちを束ねる強力な武将であったからです。大海人皇子暗殺を阻止する大伴連大国は、武家の名門の大伴連・大伴両家の宗家の頭首であったのです。
 そこで、近江朝は美濃・尾張の両国の国司に天智天皇陵を造るために徴集した人夫に武器を持つようにと命令しました。この命令を聞いた美濃国の王は近江朝が大国の配下の美濃・尾張の武士を裏切らせて大国を討伐しようとする陰謀を察知して、主君の大国が住む榛原の高屋の里に駆けつけて報告したのです。これゆえ美濃の王を従えた大国一行は、大海人皇子一行が東国に逃げるその日の朝に合流できたのです。


いちはやく当時最も強力な武将の大国が近江朝の謀略を知って吉野方に合流したため、その日に大国の五百の配下が集まり、翌日には大国の配下の美濃の三千の軍勢が集まり、3日後には大国の配下の尾張の二万の軍勢が吉野方に従い、8日後には吉野軍は近江軍を圧倒する数万の大軍となり、そして1ヵ月後には吉野軍は大勝利しました。
 大海人皇子は天皇に即位すると皇室と国家の権力の強大化をはかる律令体制を推進させ、
天照大御神を崇拝する政策を示しました。これゆえ、伊耶那美命に憧れる壬申の乱の最高の武勲者である大国は失望して、大海人皇子こと天武天皇の王朝に参加せず庶民として高屋で過ごしました。
 大国はじめ東山道・東海道の武士たちは、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の復興を願って壬申の乱に参加したのです。大国が敗北した近江朝の残党を集めて配下の武士たちに再び反乱を呼び掛ければ、発足したばかりの天武朝は大国方に敗北して崩壊する可能性がありました。そこで天武天皇は大国が反乱を決意する芽を摘むために、壬申の乱の4年後の676年に出産直後のわが子を大伴連大国の養子として与え、この捨て子に天武天皇の子にあって皇位継承順位が第3番目の皇子すなわち天武天皇の第三皇子という高い地位を与えて、東山道・東海道の武士たちの労をねぎらって怒りをおさめました。


天武天皇は大国に与えた捨て子が成長すれば、もしも東山道と東海道の武士たちが日本建国の〔愛〕の理念を掲げて反乱をおこしても、大国の後継者となって強力な武将となったわが子が武士たちを説得するか、説得できなければ強引に反乱を制圧するにちがいないと目論んだのです。
 実父の天武天皇に捨てられて、養父の大伴連大国に育てられた子が舎人皇子です。

 大伴連大国に育てられた舎人皇子は成長すると、実父天武天皇の目論みは大誤算となり、皇室と律令体制に楯つく日本古代史上における希代の反逆児となりました。



『万葉集』117番は、舎人皇子が多分18歳ころに作ったと思われる作品です。


「大夫や 片恋せむと 嘆けども 鬼の益卜雄 なほ恋ひにけり」


この117番の和歌を現代語に訳すると「武士たる者、片恋をするなんてみっともないが、吾は伊耶那美命に片恋して憧れる鬼の益荒男だ、日本建国の〔愛〕の理念の復興に命を賭ける益荒男だ」となります。
 686年に天武天皇は没しました。この年、皇后の鸕野皇女の謀略によって『日本書紀』が「天武天皇の第三皇子」と記載する大津皇子が死刑となりました。皇后は大津皇子がわが子の草壁皇子の地位を脅かすと思い込んで処刑したのです。
 しかし、皇后が生んだ天武天皇の第一皇子の草壁皇子は、翌687年に没しました。
 690年、皇后は天皇に即位しました。これが第41代持統天皇です。
 天武天皇の第二皇子は存在せず、天武天皇の子で最年長の高市皇子は696年7月10日に没しました。これゆえ、696年7月11日以降においては、『続日本紀』が「天武天皇の第三皇子」と記載する舎人皇子が天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位となりました。
 697年、持統天皇は孫の軽皇子に譲位しました。これが第42代文武天皇です。
 翌698年、持統上皇は天照大御神を恒常的に祭る壮大な伊勢神宮の宮殿を創建しました。この伊勢神宮をもって上皇は編纂スタッフに天照大御神を絶賛する偽書の作成をうながしまし。しかし、伊耶那美命に片恋する舎人皇子が偽書の作成をゆるしませんでした。
 

舎人皇子は、東山道と東海道の武士たちを束ねる大伴連大国の跡取り息子です。このため、舎人皇子は当時における最も強力な武将でありましたから、持統上皇が偽書作成を拒む編纂スタッフを処刑にすれば、舎人皇子が兵を挙げる状況だったのです。これゆえ、編纂スタッフは上皇の偽書作成の欲求を無視できたのです。
 

舎人皇子が27歳になった702年6月29日、「日本」という国号は日神・天照大御神の名にふさわしいことから後世の学者たちを騙すことができると考えた上皇の企みを実現するため、遣唐使が九州の港から出帆しました。遣唐使は歴史書を持たずに手ぶらで中国に渡って交渉したため、中国の外交官に「日本の使節と名乗るその人々は態度が尊大で、事実を語ってくれないので、中国は彼らを疑っている」と不信を抱かれることになりました。
 

持統上皇と文武天皇は偽書作成を拒む歴史書編纂スタッフの黒幕は舎人皇子であると断定して、遣唐使が九州の港から出帆した4ヵ月後の10月10日から舎人皇子討伐の行幸を開始しました。上皇と天皇は舎人皇子の配下である三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀の国司や有力者たちに褒美を与えて舎人皇子を裏切るように説得する行幸をおこないました。しかし、上皇はこの行幸疲れで12月22日に死去しました。

 

707年6月、舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派の勢力に脅える心労が原因でしょうか、25歳の若さで文武天皇が没しました。天皇は生母の阿閉皇女が天皇に即位することを願いました。阿閉皇女は息子の遺志を継ぎ、天皇に即位しました。これが第43代元明天皇です。
 

舎人皇子が33歳となった708年3月、元明天皇は皇祖・天照大御神を皇室の至上神として崇拝して強大な権力を尊重する律令体制を推進するために、また姉の持統上皇と息子の文武天皇の仇である舎人皇子の勢力の弱体化を図って、石上麻呂を左大臣に、藤原不比等を右大臣に任命しました。


710年3月10日、平城京に遷都しました。
 

『古事記』序の後半に記載されているように、711年9月18日、元明天皇は舎人皇子が率いる伊耶那美崇拝派に挑戦状をつきつけました。この天皇の挑戦状は「歴史書を完成させて献上せよ」という詔令です。天皇は太安万侶に「歴史書を完成せよ」と命令し、安万侶がこの命令を舎人皇子に伝えたのです。天皇は『古事記』献呈を最初から拒否して直ちに焚書・反古にして抹殺する心算であったのです。
 詔から4ヵ月後の翌712年1月28日に『古事記』は元明天皇に献上され、天皇はただちに『古事記』の献呈を拒絶しました。『古事記』は反逆の歴史書であったために、正史『続日本紀』は『古事記』の編纂・完成・献呈などについて一切記載していません。
 

『古事記』が献呈却下された712年、舎人皇子は37歳でした。舎人皇子は庶民として都から遠い片田舎の高屋に住んでいました。伊耶那美崇拝運動に全身全霊を傾けるために、ついに舎人皇子は都に上る決意をしました。これゆえ、舎人皇子に関する記事が『続日本紀』に載るのは、皇子が39歳であった714年1月3日以後です。これ以後、舎人皇子に関する記事は『続日本紀』に多数載っています。舎人皇子が庶民から皇族に転身した年は712年の夏ころから713年の正月ごろであったと思われます。これゆえ、皇子は60歳で没していますから、前半の37年間は庶民として暮らし、後半の22、3年間は皇族として過ごしたことになります。
 

720年、『日本書紀』が元明上皇の娘の第44代元正天皇に献上されました。
 

『続日本紀』は「これより先に一品の舎人親王は、勅をうけて日本紀の編纂にしたがっていたが、この度それが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上した」と記載します。
 

この記事に登場する『日本紀』が『日本書紀』という名になり、正史となりました。しかし、舎人皇子にとって『日本書紀』となった『日本紀』は失敗作であったのです。というのも、書名を『日本紀』としたにもかかわらず、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は不明確となり、小国・日本の範囲も記載しない――作成目的が何にも果たされていない失敗作だったのです。ですから、『日本紀』は皇室にとって好都合の史書となり、完成直後から朝廷は講義に用いる書物として扱い日本国誕生史の真相を誤魔化す解釈・方法を研究しました。つまり、皇室は『日本書紀』をもって、沼津でおこった小国・日本の誕生史や日本建国の〔愛〕の理念や夏音文字の学芸を不明にする対策をはかったのです。

この朝廷に対抗して、先人たちは〔[玄]のキャッチ〕や〔夏音文字の学芸〕が実在したと伝える多数の史料を作って日本国誕生史の真相を後世に伝えたのです。だから、先人たちが残した〔[玄]のキャッチ〕と〔夏音文字の学芸〕を保存・貯蔵した多数の史料によって、今日、沼津市は日本国誕生の地であることはいとも簡単に科学的に証明できます。

 

729年4月3日に太政官処分が発令されました。『続日本紀』は太政官処分について「舎人親王が朝堂に入る時、諸司の官人は親王のために座席をおりて、敬意をあらわすに及ばない」と記載します。この記事に登場する「朝堂」は「平城京の大内裏の政庁で、八省百官が政務を執行するところ、政治の中枢部」であったのです。時に舎人皇子は天皇に継ぐ地位の太政官の長官である知太政官事でありました。しかし、元明上皇は没する直前に、天皇と知太政官事の間に「内臣」という地位を新設する勅令をもって、藤原房前を内臣に任命して、房前の命令は知太政官事の舎人皇子の命令よりも勝るようにしました。
 

太政官処分を発令した時の天皇は第45代聖武天皇です。聖武天皇の父は文武天皇であり、母は藤原不比等の娘の宮子です。
 藤原氏の血を受け継ぐ聖武天皇と藤原不比等の第二子の藤原房前は伊耶那美崇拝派の頭領の舎人皇子を役人たちが敬意をあらわさずに侮辱せよとさらし者にする命令を発して、国家権力に逆らえばいかに惨めになるか骨の髄まで思い知らせて、皇子が自分たちにすがりつくことを期待したのです。しかし、このような卑怯な仕打ちで、皇子は屈服するような柔な人物ではありませんでした。37、8歳まで庶民であった皇子は役人たちに嘲笑され蔑視されてももともと自分は身分卑しい庶民であったと考えていっこうに気にとめませんでした。皇子は天皇と房前が期待したように処分取り消しを願うような人物ではなく、また鬱病になって気が狂い自殺するような人物でもありませんでした。日本建国の〔愛〕の理念をまもるために、養父の大伴連大国が鍛えに鍛えて育てた“絶対に降参しない、ネバーギブアップ”の鬼の益荒男であったのです。

万葉歌人で有名な山上憶良の代表作は「銀も 金も玉も 何せむと まさされる宝 子にしかめやも」と詠む『万葉集』803番です。この和歌は日本建国の〔愛〕の理念を詠む作品です。憶良は自分の命よりも舎人皇子の命のほうが大事であると考え、皇子を主君と仰ぎ敬愛しました。憶良が舎人皇子を主君と仰ぎ敬愛したと伝える和歌は、733年の6月直後の、74歳前後の憶良が人生の最後に作ったとされる『万葉集』978番です。この和歌で、憶良は729年の4月の太政官処分以来、心ない役人たちに侮辱される主君の惨めな境遇を救えず慰めることもできず、重病に伏す自分の賦甲斐無さに涙を流して悲嘆しました。
 

「士やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立たずして」(『万葉集』978番)
 「わが主君の舎人親王は心無い役人たちに侮辱され虚仮にされてひどい恥辱を受けている! 日本建国の〔愛〕の理念をいのちに賭けてまもる戦いは空しく終わるのか! 日本国誕生史の真実を後世に残さんと戦う鬼のますらおの名は、万代まで語り継がれるべきなのに……。こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前公や政府がやっていることはあまりにも悪辣で下劣で卑怯だ!」
 

この和歌には添え書きがあり、この添え書きを訳すると「右の一首は、山上憶良臣の病気が重くなったときに、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を遣わして容体をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この歌を口ずさんだ」となります。
 内臣の藤原房前の第3子が、添え書きにある藤原八束です。八束は河辺東人に憶良の容体を調べるように命じました。憶良は東人に容体を説明した後に沈黙して、政争に敗れた主君の姿をふと思い浮かべたのです。この瞬間、憶良の目には涙があふれ、その涙をふきながら、東人と八束の背後にいる房前と天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌を口からもらしたのです。憶良は憶良なりに命がつきる寸前まで律令体制に反抗を示し、そして最後の最後まで舎人皇子を主君と仰いで敬愛していたのです。

 

この憶良の最後を知ったからでしょうか、舎人皇子は『万葉集』編纂を計画し、異母弟の新田部親王と共謀して、葛城王兄弟に聖武天皇を騙して『万葉集』を編纂するように命令しました。
 舎人皇子が『万葉集』編纂を命令した件は、『続日本紀』の736年11月11日に記載されています。この記事は要約しますと――733年、舎人と新田部の両親王が葛城王兄弟に聖武天皇から母方の橘の姓をたまわるようにするが、この橘の姓は「万歳に窮みなく、千葉に相伝えん」とするものである。お前たち兄弟は、この計画に引き受ける覚悟があるかとたずねた。兄弟は「死を覚悟して必ずやり遂げます」と決意を示して誓った――となります。
 この時の「万歳に窮みなく、千葉に相伝えん」という文が『万葉集』という書名になったという意見が定説です。ですから、舎人と新田部の両親王は――聖武天皇から得る〔橘〕という姓は「天皇が勅で『万葉集』編纂を命令した」と意味する。ゆえに〔橘〕の姓をたまわるということは、天皇を騙して後世万歳まで残る勅撰和歌集『万葉集』を編纂するという企みをあらわす。したがって『万葉集』の作成目的は日本建国の〔愛〕の理念を後世・永遠に伝えることである――と葛城兄弟に事情を話して、命を賭けておこなう『万葉集』の編纂事業を引き受ける覚悟があるかとたずねたのです。
 以後、葛城王は「聖武天皇を騙して、日本国誕生史の真相を後世永久に残す勅撰和歌集の『万葉集』編纂する」と意味する暗号の〔橘〕の姓を名乗り諸兄という名に変えました。というのも、失敗作の『日本書紀』が元正天皇に献上されたのは720年5月21日であり、陰暦5月は「橘月」とも称したからです。『日本書紀』の失敗を挽回して、日本建国の〔愛〕の理念を後世永久に伝えるために『万葉集』を編纂することになったので、「橘」が「『万葉集』を編纂する」と意味する暗号となったのです。
 したがって『万葉集』は失敗作『日本紀』に代わって日本国誕生史の真相を解明できる史料として作成されたのです。これゆえ、高尾山古墳から出土した鏡の鴨の絵と岡本天皇が作った『万葉集』の485番の長歌と486番・487番の二首の短歌が合致して伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を今日伝えることになったのです。
 現在、舎人皇子が指導して作成された『古事記』は焚書されずに残っていますが、当時は『古事記』は元明帝によって焚書されて後世には残らない書物であったのです。ですから、『古事記』上巻に代わって『万葉集』は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために編纂された歴史書の役目を有していたのです。

 735年11月14日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の時代を生きた万葉の反逆児舎人皇子は没しました。享年60歳でした。舎人皇子の墓はありません。朝廷と国家に反逆した罪で、聖武天皇は舎人皇子の墓を造ることを許可しなかったからです。
 

753年5月、橘諸兄は70歳になりました。しかし、聖武上皇と第46代孝謙天皇に気づかれまいと密かにおこなう『万葉集』編纂事業は、未だ完成できず小国・日本の範囲を明確に示す和歌を収録していませんでした。70歳となってもはや死期が間近に迫る諸兄は、主君舎人皇子と交した約束をまもるために、朝廷と国家に反逆する『万葉集』編纂事業を受け継いで完成させる人物を一刻も早く決めなければなりませんでした。
 諸兄が編纂者の後継者として白羽の矢を立てた人物は、36歳の少納言の大伴家持でした。というのも、家持は優れた歌人の上に、彼が家督した大伴家の宗家は大伴連家であり、その宗家・大伴連の家督者が舎人皇子だったからです。これゆえ、大伴家持は『万葉集』の編纂者として最適任者であったのです。
 ここに、753年、大伴家持は舎人皇子の遺志を継ぎことになりました。
 

ゆえに、家持が引き継ぎを決意した753年までに集められた『万葉集』の巻一から巻十六までの編纂は、橘諸兄がおこなったことになります。『万葉集』の巻十七から巻二十までは、大伴家持が編纂したのです。家持は諸兄が編纂した巻十六に手を加え、巻十七以後を759年6月から764年正月までに編纂しました。その後、777年1月から翌778年1月までに、家持は全巻に目を通して修正を加え、『万葉集』を完成させました。
 

『万葉集』編纂は朝廷と国家が抹殺しようとした日本建国の〔愛〕の理念を後世に残す、つまり“愛、あざやかに永遠であれ”と願う日本人の命と魂の叫びを伝える反逆の事業であったのです。
 ですから、大伴家持は〈朝廷と国家に逆らって、謀反に関わっているのではないか〉と3度も疑われて苛酷な処罰を受けました。その最初は、763年4月に藤原良継たちの恵美押勝殺害計画に加わったという嫌疑で、あやうく処刑されるのをまぬがれて薩摩守に左遷されました。二度目は、782年正月に因幡守の氷上川継が謀反をおこし、これに連座した嫌疑で家持は官を解かれて居住地を都の外に移されました。三度目は、家持は左遷されて都から遠く離れる東北の多賀城にて785年8月に68歳で没しましたが、その没した日の20日後に大伴継人・大伴竹良らが藤原種継を殺害したため、家持はこの殺害計画に加わったと疑われて領地の越前国加賀郡の百余町などを没収され、息子の永主は流罪となりました。

 

舎人皇子は――絶対に失ってはならない歴史がある。決して無くしてはならない歴史がある、何人に排除されてはいけない歴史がある、何人も奪ってはならない真実の歴史がある、皇室も国家も抹殺してはならない真実の歴史がある。伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の歴史は何人にも奪われてはならない――という信念の基に強大な権力に戦いを挑んだのです。
 だから、大伴家持は厳しい処罰を承知のうえで『万葉集』を完成させたのです。
 

『万葉集』の最後は巻二十です。この巻二十に集められた116首の防人歌は『万葉集』作成目的である小国・日本の範囲と日本建国の〔愛〕の理念を明確に伝えます。防人歌は『日本紀』の失敗を挽回して、『万葉集』の作成目的である真実の日本国誕生史を後世に明確に伝える史料であったのです。


『万葉集』巻二十に収められる東国の防人たちが作った和歌は、4321番から4436番までの116首です。この防人歌は、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の歌が110首あり、小国・日本の人々が呉軍の遠征を脅えて鹿島の神にすがった様子を伝える和歌が2首加えられています。116首のうちの残る4首は日本国誕生史を題材にする和歌であると考えられますが、その意味を明確に示すことが私にはできません。
 

しかし、妻子や両親や恋人を思い気づかう110首と鹿島の神を詠む2首の和歌は、間違い無く日本国誕生史を伝える和歌です。ですから、116首の内の112首の97パーセントの和歌は防人の出身国の東国が小国・日本であったことを証明する確かな証拠となります。
 東日本・日本国の男たちは遠い筑紫・壱岐・対馬と北九州の守備にあたりました。不思議なのは、なぜ筑紫・壱岐・対馬と北九州に近い西日本の人々が中心になって防人をつとめなかったのでしょうか。なぜ、東日本の人々が、真っ先に筑紫・壱岐・対馬や北九州や西国の人々のいのちをまもらなければならなかったのでしょうか。それというのも、東日本の防人たちの先祖は伊耶那岐命が指揮する黄泉比良坂のクーデターに参加した日本兵であったからです。東日本の男たちは、天照大御神を倭女王から失脚させた怨みと祟りのために、防人の任務につかわなければならなかったのです。
 

東日本の防人たちは伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱とした〔愛〕をまもるために、妻や子どもや両親や恋人のために兵役につとめたのです。ゆえに、110首の和歌は、妻子や両親や恋人を思い気づかう〔愛〕の歌です。

 

図26に、巻二十の防人歌の作者たちの出身地をあらわしました。遠江を除く範囲が、小国・日本であったのです。
 


図26の左下隅にある遠江は卑弥呼が統治した倭人国に属する小国・不呼国でした。しかし、260年ころ~290年ころに建比良鳥命が、図27に示すちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を作成して、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を貯蔵・保存したため、以後、遠江の人々は“愛、あざやかに永遠であれ”と願うことになりました。

ゆえに、朝廷は図27の「卑弥呼」の地上絵の存在に気づいていませでしたが、遠江は伊耶那美命を敬愛する人々が住む国と察知して防人の任務につかせたのです。


図26が示すように、家持は伊豆国出身者の和歌を集めることができませんでした。ゆえに、家持は4336番の「防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手舟 梶取る間なく 恋は繁けむ」と詠む、「伊豆」を登場させる和歌を作っています。この和歌に詠まれた「伊豆手舟」はおそらく3世紀に日本軍が発明した「天鳥船」のことであり、結句の「恋は繁けむ」は「故郷の恋人を絶えず思って恋しかろう」と表現するものであったと思われます。
 

4370番は「霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士 我は来にしを」と詠む和歌ですが、この和歌は一見すると天皇への尊敬を示していると解釈できますが、「鹿島の神を」という二句目は小国・日本を讃えていると解釈できます。したがって、この和歌は天皇への尊敬を示すものでなく、「鹿島の神に命をまもってくれるように祈りつづけて、天皇への命令に反発しながら防人となる」という複雑な心境を表現していることになります。
 

4373番は「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜のみ楯と 出で立つ我は」という和歌もまた大君・天皇への尊敬を示すと見せかけて、「醜のみ楯と」と詠む四句目で「天皇に楯つく我は醜い兵士である」と表現していると考えられます。




図28に示す西の島田市・焼津市から東の鹿島市・鹿島神宮までの小国・日本の防衛海岸線地域には鹿島踊りが分布し、「悪魔が来た!」と囃し立てるものであったと伝えられています。この「悪魔」はもちろん「呉の遠征軍」だったのです。
 鹿島踊りは熱海市上多賀の多賀神社、下多賀の下多賀神社で行われます。両神社の名に共通する「多賀」は『古事記』上巻に記載された伊耶那岐命が没した地名です。
 神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜の素鵞神社においても、神奈川県指定無形民俗文化財となった鹿島踊りが受け継がれています。「素鵞」は伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた「須佐之男命」の別名です。


図29に示す、静岡県島田市大井町の大井神社にある大奴・鹿島踊りのブロンズ像は、図4に示した「右足を上げる十字の銀河」を真似て片足を上げています。
 鹿島踊りは、石材・木材運搬の担い手たちによって広められたという説があります。


3世紀当時、図30に示す駿河湾と浮島沼が繋がる水路は、巨大な呉の軍船が進入する通路として狭かったにちがいありません。ゆえに、浮島沼に進入させて沼地に追い込んで立ち往生する呉の艦隊を“袋の中のネズミ”にして撃滅すると作戦を立てた日本軍は、石材・木材を運搬する人々を徴集して水路を広げる土木工事をおこなったことになります。これゆえ、鹿島踊りは石材・木材運搬する人々によって広められたという説はもっともであると納得できます。

 前回のわが講演で解説しましたように、『魏志』倭人伝の全部で15ヵ所の方位記事は卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した錯覚の転回日本列島地理を証言するものであったことを証明しました。つまり、「北極星では往来出来ないが、[玄]のキャッチならば往来できた陸地から遠く離れた波の荒い海」である玄界灘に浮かぶ図31に示す沖ノ島と伊豆諸島の神津島が同緯度(北緯34度15分)にもとづいて、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定したことを証明しました。



これゆえ卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は、図32に示したごとくであったのです。
 

図33に、現在方位と卑弥呼王朝が制定した転回方位の小国・日本地理を左右にならべました。


中国の正史『旧唐書』倭国日本伝には、702年に中国に渡った遣唐使が小国・日本の地理について――「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし」と説明した――という記述があります。
 図33の左図の現在方位の小国・日本の地理ですと、「西界」は大海ではなく静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県三河の陸地となります。ゆえに、「西界は大海である」という記述に矛盾します。


 一方、図33の右図の卑弥呼王朝が制定した転回方位の小国・日本の地理ですと、「西界」は大海となる太平洋、「南界」も鹿島灘がある大海となる太平洋ですから、「西界南界は咸な大海に至る」という記述に矛盾しません。小国・日本の転回方位の東(現在の北)の界には三国山脈や日光の山々や関東山地があり、北(現在の西)の界には富士山や赤石山脈があります。ですから、「東界北界は大山ありて限りをなす」という記述にも合致します。
 以上のように、現在方位だと「西界は大海である」と説明した遣唐使の言は矛盾しますが、転回方位だと遣唐使の説明は合理となります。これゆえ、倭国に属することになった小国・日本の地理は卑弥呼王朝が制定したて転回方位にもとづくことになったのです。転回方位は738年の聖武天皇が国郡図改定命令によって修正されました。しかし、702年においては修正されていませんでしたから、遣唐使は小国・日本の地理を転回方位規定で説明したのです。

 

図34に示すように、〔鳴門の渦潮〕も、図31に示した沖ノ島と神津島と同緯度の北緯34度15分です。鳴門の渦潮の潮流は時速20キロメートル以上になることもあり、世界で最高級の速度であるといわれています。豪快に巻く渦の直径は20メートルに達するものもあります。


 『古事記』上巻の伊耶那美命と伊耶那美命説話の初頭にある〔淤能碁呂島の聖婚〕の冒頭の文は、北緯34度15分の図31の沖ノ島と神津島の同緯度によって成立した転回日本列島地理について、次のごとく説明しています。
「伊耶那岐命と伊耶那美命は天浮橋に立って、天沼矛を指しおろしてかき回すと、海水はコオロコオロと鳴り響いた。天沼矛を引き上げる時に、その矛の末よりしたたり落ちる塩が重なり積もって島となった。これが淤能碁呂島である。」
 

この記事に登場する「天浮橋」とは「北緯34度15分の沖ノ島と神津島に模して作られた聖婚会場に設けられた橋のような建造物」であり、「天沼矛」は図34に示す「淡路島に見立てられた矛」であったと思われます。

そして、「鳴門の渦潮」は「コオロコオロと海水が鳴り響いた」と表現されたのです。結局、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理は――日本列島の地底には潮(海水)が進入して淤のように柔らかく碁呂がる、つまり碁石のごとく小さな沖ノ島と神津島によって東が南になるように90度転回する――と定めた地理論であったのです。つまり、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を『古事記』は「淤能碁呂島」と表記したのです。
 
 

「これが淤能碁呂島である」という文の後に、聖婚説話は「その島に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」という文を続けます。

この文の先頭の「その島に天降り坐して」は、「伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任地の小国・日本の浮島沼に到着した」と意味することになります。
 

「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」は「大きな柱を垂直に立てると見立て、両人が呉の水軍を撃退して小国・日本に赴任した目的を果たした時に建造する広い宮殿に見立てて高尾山古墳を築いた」と意味するものであったのです。というのも、「天の御柱」も「八尋殿」も「見立てて」と記しているように、「天の御柱を立てて広い宮殿を完成したときの状況を想像した」と伝えているからです。


 図35に示すように、高尾山古墳と主体部の舟形木棺が納められた祠の東西軸は緯度軸に対して6度ぐらい北へ寄っています。『説文解字』は[祠]の字源を「春の祭を祠といふ」と解説し、『礼記』月令にある「仲春の月、祠るに犠牲を用ひず」という文を引用します。ゆえに、高尾山古墳は犠牲者や死体を納める陵墓でないと前述しました。「春の祭を祠といふ」また「仲春」は「真東から日が昇る春分の朝」を意味することになります。――図35に示した「緯度軸が示す真東」は「伊耶那美命と伊耶那岐命が呉軍を撃退して赴任した目的をはたした時に、天の御柱を建てて八尋殿の完成させる状況」をあらわす位置となります。ですから、「緯度軸に対して主体軸が北へ6度寄る高尾山古墳」は「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」という状況に合致します。
 この後に聖婚記事は、両人は互いの肉体の特徴を説明しあったと記述します。この女体と男の体の説明こそ、伊耶那美命は女王として小国・日本をどのように治めるか、伊耶那岐命は小国・日本の軍王としてのどのようにつとめるのかを考えて、結婚式に臨んだと説明する共に――図35に示す高尾山古墳の祠(穴)と舟形木棺を説明するものとなります。〔祠となった穴〕は〔女陰〕に相似すると見立てられ、〔舟形木棺〕は〔男根〕に相似すると見立てられたのです。ゆえに伊耶那岐命の「この私の身体の余分なところを、おまえの身体の足りないところに刺し入れ塞いで、日本国を生もうと思う。生むことはどうであろうか」という言に合致して、祠に舟形木棺が刺し入れ塞いだ状態で発掘されました。
 二人の儀式は、次に天の御柱を巡ることになりました。この「天の御柱」は、図36の示すように、柱の先端が「天頂」を指す垂直に立つ木の柱であったことになります。


わたくしは高尾山古墳の近くの根方街道地域の東椎路に数年住んでいましたが、根方街道の地域では元旦に男衆が集まって木の柱(神木)を垂直に立てる儀式を行いました。また、現在住んでいる清水町でも元旦に神木を立てる儀式が受け継がれていました。


 したがって、高尾山古墳の後方墳に垂直に立つ柱が建てられ、伊耶那美命と伊耶那岐命が巡る儀式が行われたのです。この天の御柱を伊耶那美命は右から巡り、伊耶那岐命は左から巡って、伊耶那美命は「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と伊耶那岐命を讃えて結婚の品として銅鏡と曲玉を舟形木棺に納め、そのあとに伊耶那岐命は「なんとまあ、美しい娘であろう」と唱えて舟形木棺に鉄槍2点・鉄鏃32点・鉄鉋1点を納めたのです。
 この後、『古事記』は――伊耶那美命が納めた銅鏡には呉軍との戦いに似つかわしくない鴨の絵が刻まれていたのを発見して、伊耶那岐命は「女が男より先に唱えたのはよろしくない」と批判した――と記述しています。
 

以上のごとく、遺跡・高尾山古墳と古文献『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖結記事の両者は合致しますので、沼津は日本国が誕生した地であったことは歴史的事実となります。














まとめ――沼津市と沼津市民は〔誤読〕の犠牲になる必要がない





 沼津市東熊堂の高尾山古墳は、東日本最古の最大の古墳です。『万葉集』作成目的は防人歌で東日本が小国・日本国であることを後世に伝えることであったのです。したがって、伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任する呉の遠征軍との決戦場は沼津の浮島沼と予想されたために、高尾山古墳は東日本=小国・日本における最古にして最大の古墳となったのです。
 雌鹿塚遺跡から出土した「天鳥船」をあらわす呪具、84軒の軍事的集落で構成された八兵衛洞遺跡、そして高尾山古墳から出土した鉄槍2点と鉄鏃32点と鉄鉋1点の武器が証拠となって、『魏志』倭人伝末部に登場する壱与・伊耶那美命と載斯烏越・伊耶那岐命は呉の水軍が再度遠征して来るという想像の基に、浮島沼の決戦にそなえていたことは確かな歴史的事実となります。
 そして最も注目すべきことに岡本天皇が作った3首の和歌によって、高尾山古墳から出土した青銅鏡に刻まれた3羽の鴨の絵は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を明確に示します。
 だから高尾山古墳からの出土物によって、『古事記』上巻にある伊耶那岐命と伊耶那岐命の淤能碁呂島の聖婚説話と国生み説話は歴史的事実であったことが証明されます。
 『魏志』倭人伝の末部の魏の正始8年、すなわち西暦247年の記事が伝える――卑弥呼が没して大きな墓を作る時に奴婢の百余人を殺して卑弥呼の墓に埋める残酷な徇葬を行った。この徇葬を憎悪した人々が武器を持って戦う反乱が国中にひろがり、倭王朝は千余人の反乱者を殺害した。また、倭王朝は13歳で小国・日本の女王となった壱与を帰還させると、国中にひろがっていた反乱は遂に鎮まった――という記事もまた事実となります。


前回のわが講演で指摘しましたように、古代史学には過去におきた出来事を事実であると証明できる絶対的原理・絶対的法則が存在します。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ごろに生存したギリシアの詩人のホメロスが作った英雄叙事詩『イリアス』に記述されました。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定しました。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見しました。この結果、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明されました。
 つまり、前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの遺跡・史跡・遺物が発見されたならば、前人の記述は真実であり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読による空想であり、妄想であったことになります。


 第1番目に、高尾山古墳の立地状況と出土した銅鏡に画かれた鴨の絵柄と『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚記事と『魏志』倭人伝の壱与が徇葬を憎悪する反乱を鎮めた記事は合致します。したがって、古文献と遺跡が合致して歴史を証明するという古代史学における絶対的法則に則って、沼津市は日本国誕生の地であったことは歴史的事実ということになります。


第2番目に、〔[玄]のキャッチ〕を排除しますと、学者や学士諸氏の立論基盤となる『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかったという事態になりますから、学者たちの意見は直ちに空理空論となります。


第3番目に、学者たちは「夏音文字は伝来していない」ときっぱりと断定しますが、夏音文字は『魏志』倭人伝には卑弥呼・壱与・載斯烏越をはじめとする人名と小国名に用いられて現存し、『古事記』の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として、夏音文字は多数現存します。ゆえに、学者たちの意見は直ちに空理空論となります。


第4番目に、学者たちは高尾山古墳に関して様々な意見を述べますが、これらの意見に合致する古文献の記述は存在しません。したがって彼等の意見はあくまでも推論です。しかも、この推論は学者たちが古代史学の初歩的心得や基本基礎を守らない誤読の空論ということになります。


以上の4点からして、沼津市は確かに日本国が誕生した地であったのです。
 これゆえ、トロイの遺跡の発見の事例からして1725年に没した新井白石以後に『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加えた学者たちが加えたすべての〔文献批判〕の正体は〔誤読〕であったのです。

 去る8月6日、沼津市は高尾山古墳の取り壊しを白紙撤回し、栗原裕康市長は「発掘調査による記録保存ではなく、現状保存」と述べ、「協議会で一から検討し直す」と明言しました。この判断は素晴らしい決断ではあります。

しかしながら――この結果、どうやら道路建設に費やした国費の返還はおこなわなくてもよいことになったようですが、①道路建設に伴って土地の立ち退きをなされた方々の保障、②道路建設計画挫折への今後の厳しい制裁や沼津市の様々な要求に対して厳しく査定されて制限されるなど、沼津市の発展・繁栄において問題が山積みとなりますます悩ましい困難な状況となったと考えられます。


しかしわれわれは、古代史学の〔誤読〕による犠牲者であり被害者なのです。学者たちの意見は明確に〔誤読の空論〕であり、簡単に沼津市は日本国が誕生した地であることは証明できます。ですから、沼津市は日本国が誕生した地であったという科学的な証明は、①道路建設に伴って土地の立ち退きをなされた方々の遣り場のない怒りも幾分は和らげることができると思われるうえに、②沼津市は日本国が誕生した地であったことを示す先人たちが残した多数の史料によって、今後、沼津市へ様々な国の援助もおこなわれるにちがいありません。ですから、沼津市は日本国が誕生した地であった歴史研究と主張はますます重要となります。
 さいわい、多くの先人たちは➊〔[玄]のキャッチ〕と➋〔夏音文字の学芸〕を注目すれば日本国誕生史の真実はいとも簡単に証明できる多くの史料をわれわれに残してくれました。
 このような先人たちの熱き情念を土足で踏みにじって学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に〔誤読〕を加えて、日本国誕生史の真実を抹殺し続けています。
 学者たちが駆使する〔誤読〕は、すべての日本人が日本人として生きる権利と尊厳を全否定する横暴きわまりない暴力です。


われら沼津市民は、学者たちから〔誤読〕の往復びんたを浴びて虚仮にされ侮辱され虐待される筋合いはまったくないのです。
 学者たちの誤読の空論を暴くために、高尾山古墳は、突如、出現したのです。
 高尾山古墳は、日本のトロイの遺跡です。世界的に特別に貴重な遺跡なのです。
 学者たちの意見は〔空想の産物〕であったことが明確に証明できる、日本のトロイの遺跡です。
 日本国は〔愛〕を高らかに掲げて誕生したのです。高尾山古墳から出土した銅鏡に刻まれた3羽の鴨の絵は日本建国の〔愛〕の理念を示すものであり、日本人が絶対に失うことができない生命の根元となる日本人の魂をあらわす絵です。
 われわれは、〔愛〕を掲げて誕生したという――誇らしい歴史をついに手に入れることができるようになったのです。
 われわれは、日本人の魂と命が合体できるようになったのです。
 多くの先人たちは日本国誕生史が〔誤読〕で支配される状況を心配して、真実の日本国誕生史を解明できる多くの史料を後世に残しました。


したがって、われわれは〔誤読の空論〕の犠牲になる必要はないのです。
沼津市を衰退に至らしめる最大の加害者は〔誤読の空論〕を押し付ける学者たちです。
沼津市と沼津市民は日本国誕生史を抹殺する〔誤読の空論〕を排除するために、道路建設を白紙撤回して賢明な未来を選択したということを世に示さなければならないのです。
高尾山古墳によって真実の日本国誕生史は今や蘇えったのです。





最後に、銅鐸について説明します。銅鐸は鳴器・楽器であったと指摘されますが、[玄]すなわち天頂緯度と子午線をキャッチして地宜を知る、平面的に図化した地図の形を知る道具だったのです。

[玄]とは「緯度を1分の誤差もなく精確に測量できる方法」であったのです。深い森に入って山菜採りした人、獲物を追って山奥に入った人、漁をするために陸地から遠く離れる大海に入った人、新しい文化や生活必需品を手に入れるために遠い地に旅した人、朝鮮半島や中国に渡った人、このような人々にとって家族が待つ家に帰還する方法が〔[玄]のキャッチ〕であったのです。
 


図37に示すように、模造鐸の筒の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔の直径が最大に拡大されます。そして、筒の上の舞にある二つの孔から舞の中央に立つ垂直に立つ2、3ミリの薄い板となる鈕を仰ぎ見ると、その鈕は板ではなく細い1本の線(影)と化して見えます。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくり微調整して最も細くなるようにすると、銅鐸の筒はおのずと正確に垂直に立ちます。この時、鈕の頂上に取りつけられる“渦巻状双耳”という名の部分に刻まれる文様が矢を射当てる的のように同心円形となり、その的の中心点が天頂点とぴったりと重なる仕組みになっています。
 弥生人の発明・工夫には思わず感歎! ビックリマークです。われわれは目のまわりが真っ暗になれば即座に銀河や星が見えなくなると思いこんでしまいますが、夜毎[玄]をキャッチして天頂緯度を測定する能力を高めていた弥生人たちは、目が暗闇になれると暗い銀河部や暗い星までよく見えるようになる瞳孔の魔術、原始以来人間の大脳辺縁系にそなわっている“たくましく”生きてゆく本能の魔力の存在を知っていたのです。われわれにも弥生人と同じく夜毎鍛錬すれば、この魔力をとり戻すことができるのです。


――図9に示した娩出期の新生児のごとく無欲になって何にも考えないで筒の中に顔を突っ込みますと、視線は〔矢〕となり、前述した岡本天皇が作った短歌にある「不知哉川」の[知]にある[矢]は、――図23に示したように「視線」であったのです。 




●参考文献



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インターネット・フリー百科事典『ウィキペディア』東熊堂の由来

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インターネット・フリー百科事典『ウィキペディア』鹿島踊り



2015年8月9日
大川誠一記す





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