7/23 沼津大学セミナー「日本国誕生期の沼津と家康の心願」全原稿

7/23に、高尾山古墳とも関わるセミナーを開催いたしました。

講師の大川誠一様より許可をいただきましたので、講演文を掲載致します。

復習としてお使いいただければ幸いです。


ーーーーーーー


はじめに

早速ながら、ここに掲げるキー・ワードの「250」は東熊堂の「高尾山古墳」が完成されたと考えられる基準年代と定めた数字です。なぜならば、私が目にした新聞は「高尾山古墳は250年ころに作成された」と記してあったからです。

「卑弥呼」が登場することで有名な『魏志』倭人伝は、250年から30年後の280年~289年に著作されました。


『魏志』倭人伝の末部に記された最終年号は「魏の正始8年」つまり「西暦247年」です。だから、高尾山古墳は、西暦247年の3年後に完成したことになります。


この247年の『魏志』倭人伝の記事は「卑弥呼すでに死す。大きな墓を作った。直径が百余歩、すなわち約150メートルもあった。この卑弥呼の墓を作る時に奴婢、つまり「奴」は18歳くらい青年、「婢」は13歳くらいの乙女をイケニエにして百余人を殺して葬った。このような残酷な徇葬を決行した卑弥呼の後を継いだ男の大王に国中の人々は服従せずに武器をもって反乱したので、千余人の反乱者たちは殺された。また、倭王朝は前年に卑弥呼が率いる巫女を代表して13歳の壱与を小国・日本の王に選んで赴任させていたが、この壱与を小国・日本から倭国に戻して倭女王に就任させると、国中の反乱者たちは武器を捨てた。ゆえに、ついに倭国は平定された」と記述します。


13歳で小国・日本の女王となった壱与は、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めました。壱与は倭国に属する小国・「伊耶国」(ワード)の出身者でした。伊耶国は旧国の丹波であり、現在は京都市中部と兵庫県の一部です。ゆえに、壱与はもともと小国・日本生まれではなく、卑弥呼が治める大国の倭国の出身者であったのです。日本国と倭国の人民は〔愛〕の女王「壱与」を「伊耶国の美しい女王」と敬愛して『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命」(ワード)という愛称で呼んでいたのです。


以上のごとく、高尾山古墳は――小国・日本の〔愛〕の女王=壱与・伊耶那美命が倭女王に就任して、残酷な徇葬を憎悪する反乱が終息した、その3年後の250年頃に完成したようです。







第1章――日本国誕生史の秘密 





高尾山古墳が作られた年の250マイナス42すなわち42年前の208年に、中国の戦争史で有名な赤壁の戦いがありました。


2009年の5月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する「レッド・クリフ」すなわち「赤壁の戦い」の1部と2部が上映されて、赤壁の戦いが詳細に描かれました。わずか5万の呉・蜀の連合軍は約16倍の80万の魏の大軍を撃破して劇的な大勝利をおさめました。映画でも描かれたとおり、呉・蜀の連合軍を勝利に導いたのはわずか2万の呉の水軍でした。


250マイナス27すなわち223年、赤壁の戦いに参加した蜀の名臣諸葛孔明は蜀と呉が協力して魏を倒して中国をおさめる「天下二分の計」を計画しました。この計画に、呉の孫権も承諾し、蜀と呉は軍事同盟を結びました。


当時、中国は魏・蜀・呉の3国に分かれていましたが、魏の北側の背後に4番目の国として公孫淵が魏帝につかえる遼東大守となって、「燕」という国を治めていました。
 250年から21年前の229年、孫権は呉の皇帝に即位しました。


孫権は魏の背後の燕の軍が兵を挙げ、呉と蜀が前面から攻撃すれば魏は倒れて滅亡すると考えました。燕地に住む公孫淵が魏帝につかえる地位を不服としているにちがいないと考えた孫権は、密使を派遣して公孫淵に「燕王」の地位を約束しました。しかし、この説得に公孫淵は応じませんでした。燕の背後の卑弥呼が治める倭が魏と軍事同盟を結んでいたからです。呉と燕の軍事同盟がもしも魏に知られたならば、燕は魏と倭の挟み討ちにあって燕は滅亡すると公孫淵は心配したわけです。


また、当時、日本列島において倭の背後に東鯷人国がありました。この「東鯷人国」を以後「東鯷国」と省略します。


静岡県中部の駿河はじめわれら沼津や伊豆半島より東の常陸・茨城県までの東海・関東地方が「東鯷国」だったのです。


孫権は東鯷国に水軍を遠征すれば、東鯷国が占領されて倭の背後の脅威となると考えて、倭は必ずや多数の兵を東鯷国防衛にそそぐことになるにちがいない。そうなれば、魏が倭軍の出動を要請しても倭は公孫孫討伐に少数の兵しか派遣できない、ゆえに燕にとって倭は脅威とならない。このような状況になれば、公孫淵は呉・蜀との軍事同盟を結ぶにちがいない――と戦略を立てたのです。


中国の正史『三国志』は魏書・蜀書・呉書で構成され、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝であり、約2000字で作られています。


280年~289年に著作された中国の正史『三国志』呉書孫権伝は「230年、呉の皇帝・孫権は将軍の衛温と諸葛直に夷州と亶州に分かれる東鯷国への遠征を命じた。このときの武装兵は1万」と記述します。
 この記事が示すように、高尾山古墳が完成する20年前の230年、魏の80万の大軍を撃破した2万の呉軍のうちの半分の1万の無敵艦隊が日本列島の東鯷国、わが沼津に向かって遠征することになったのです。ザックリ言えば、魏の40万の軍に匹敵する1万の無敵艦隊が沼津へと目指したのです。


中国の正史『後漢書』の末部の記事を注目しますと、孫権が1万の水軍に遠征を命じた東鯷国はどこであったかは具体的に明らかにすることができます。この記事を列挙しますと、次のごとくなります。


1.東鯷国は、倭国のいちばん奥の方にある黒歯国の隣にある


2.呉の会稽の港から海に入る、その外海に東鯷国は所在する


3.紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代に、方士の徐福が若い男女の数千人を率いて海に入
  り、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱の神仙すなわち富士山麓にある不老長寿の霊薬
を発見できなかった。徐福は死刑になるのをおそれて帰国せず、東鯷国に定住した。
卑弥呼が生存した3世紀、日本列島に渡った徐福一行の子孫は数万軒となっていた

4.東鯷人は定期的に大海を往来して呉の会稽港で交易をしている


5.東鯷国は中国人にとって遥かに遠くにあって途中で海の道が絶えて消えてしまうので、
魏・蜀・呉の中国の人々には東鯷人が通う海の道を往来することができない

。

『魏志』倭人伝は「九州は卑弥呼が治める倭国であった」と書いてありますから、東鯷国は九州のずっと奥にある黒歯国の隣に所在したことになります。


呉の会稽から日本列島に渡る航路は図2に示すように、二つしかありません。その一つは、台湾から与那国島そして宮古島、広大な太平洋、火山列島の硫黄島、小笠原諸島、伊豆諸島、そして東海・関東地方に到着するまでの海の道です。このルートを“伊豆諸島ルート”と呼ぶことにします。もう一つのルートは台湾から沖縄がある南西諸島を通過して九州南部に到着する海の道です。このルートを「南西諸島ルート」と名づけます。



南西諸島ルートの場合、呉軍は倭地へ到着して34の小国もあったという多数の倭の小国の軍と戦ってようやく中央突破し、東鯷国に到着しても戦いさらに帰路においても倭国の幾つかの小国軍と戦って帰国しなければなりません。このようないつも敵軍に包囲されて戦わなければならない兵士の消耗がはなはだしい、遠征軍の全滅が予想できる愚劣きわまりない作戦を中国史上最高の軍事戦略家と評された諸葛孔明と互角にわたりあった英才・孫権が考えるはずがありません。呉軍の日本列島遠征の目的は――公孫淵が背後の脅威とする倭軍の多数の兵士を東鯷国の防衛にそそぐこと目的としたものであったはずです。ですから、呉軍は東鯷国の駿河湾の海上に到着したならならばあたかも占領するかのごとく見せかけて一戦も交えずに帰路につき、魏王朝を滅亡させる戦いの主力にならなければならなかったはずです。この孫権の戦略を成功させる遠征ルートは、倭地を中央突破しなくてすむ広大な太平洋を往来する伊豆諸島ルートであったことになります。


『後漢書』倭伝に記載された東鯷国には不老長寿の霊薬がある蓬莱の神仙郷(ワード)である富士の山麓が所在します。ゆえに、呉の遠征軍は富士が見える駿河湾に進入して北の浮島沼に到着することになるゆえ、呉の遠征軍は沼津へと目指したことになります。


定期的に呉の会稽に往来していた東鯷人たちは図3に示す約1,650kmも遠く離れる宮古島―硫黄島までの広大な太平洋を往来していたのです。


地図を見れば一目瞭然、宮古島と硫黄島は北緯24度45分で同緯度です。この同緯度は人類が獲物を求めて移住生活をして生存した原始の時から鍛えてきた「本能的に天頂緯度と子午線をキャッチできる眼力と技」によって測定できたのです。



この「本能的に天頂緯度と子午線をキャッチできる眼力と技」を、漢字1字であらわすと[玄]となります。
 

図4に天頂点を通過する銀河部の軌道を示しました、その右上に[玄]があります。人間の目は鍛錬すると感覚が研ぎ澄まされて[玄]をキャッチできる能力がそなわり、[玄]の神秘的な呪能によって緯度1分の差までも測定できます。1,650kmも離れる広大な太平洋をはさむ宮古島と硫黄島の同緯度は、[玄]の眼力と技によってキャッチできたのです。



『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究者)は「緯度の測定」と題して「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。もっと精密に測る方法は、天頂緯度と子午線による測定である」と説明します。

人間の目は鍛錬すると、1分の緯度差を測定できる「[玄]をキャッチできる呪力」すなわち「天頂緯度と子午線をキャッチできる本能にもとづく能力」がそなわっています。われわれにも、その能力をそなわっていることをすっかり忘れているのです。
 

図5は、25,800年で一周する天の北極の位置図です。



北極星が天の北極に最も近寄るのは紀元前2790年頃のりゅう座α星と、現在から85年後の北極星のこぐま座α星の、この二つです。天の北極を中心に円を描くこの二つの北極星は、その直径は約1.5度(約90分╱満月の3個分)です。ゆえに、この二つの北極星で緯度測量する方法だと、誤差が約90分ということになります。なお、現在の北極星は天の北極から直径約2度つまり誤差が約120分となります。呉の水軍が日本列島に遠征した3世紀の北極星の誤差は約20度・1200分でした。
 だから、宮古島・硫黄島の広大な太平洋の海の道は、誤差が約1200分の北極星で測量したならば往来できなかったのです。広大な太平洋を往来できる誤差は最大でも2~3分だったのです。この海の道は、東鯷人がおこなっていた1分の緯度差が測定できる。

「原始の時から人類が鍛錬して本能としてそなわった天頂緯度と子午線を測定できる能力」つまり「[玄]をキャッチする呪力」であるならば往来できたのです。


北極星は大海を往来する時や遠くの地に旅する人々が緯度測定に用いると命を落として家族が待つ家に帰ることができない、役立たずの星だったからです。したがって、[玄]のキャッチで人類は絶滅をふせいで現在に至ったことになります。



中国では紀元前1世紀、宮古島・硫黄島の間を往来できなくなる北極星を最も重視するシナ天文が完成しました。紀元前3世紀の中国ではシナ天文が確立していませんでしたので、徐福一行は[玄]をキャッチして日本列島に移住できたのです。

ところが3世紀の1万の呉の遠征軍は[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣が約320年間も廃れていました。だから、にわか仕込みの訓練では宮古島から硫黄島までの約1,650kmも離れている海の道を渡ることができなかったのです。

このため『三国志』呉書孫権伝は「呉の1万の水軍は8割から9割の兵を失って壊滅した」と伝えています。
 

講演のキー・ポイントは[玄]のキャッチで考えると文献記事が歴史となるが、北極星で考えたり〔玄〕のキャッチを排除するる意見は直ちに〔誤読の空想〕になる、この事実です。


呉の水軍の東鯷国遠征の情報は定期的に呉の会稽で交易した東鯷人によって伝えられたものか、それとも魏がキャッチして卑弥呼に伝えて東鯷国王が知ったのか、史料が存在しないので不明です。


しかし、1万の呉軍の悪魔が襲来してくるという情報によって倭国と東鯷国の人民は恐怖のルツボと化しました。このため、卑弥呼と東鯷国王は冷静になって呉軍は大海を往来できない事実に気づかず、再度呉軍は遠征するにちがいないと思い込んでしまったのです。ゆえに、東鯷国王は呉軍と戦っても勝てるはずがないと考えて卑弥呼が治める倭国に服属することを決意しました。だから、東鯷国は卑弥呼に服属する最後の小国となり、国名は「日本」となったのです。


ゆえに、『魏志』倭人伝の末部には「卑弥呼の宗女の壱与、年十三にして王と為る」という文が存在し、13歳で小国・日本の女王となった伊耶国・丹波出身の壱与が歴史上に登場することになったのです。


『魏志』倭人伝末部の正始8年すなわち高尾山古墳が完成した3年前の247年の記事に、――「載斯烏越」(ワード)という武将が登場します。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』によると「載斯烏越」の「載斯」は「軍行を開始する」と意味することになります。「烏越」は「青い水」を意味しました。赤壁の戦いの日の夜、折しも強風が吹き出し、呉軍の勇士たちは枯れ柴に火をつけて火だるまになった舟を、長江を埋め尽くして密集する魏の軍船に目がけて突入させました。すると、強風に煽られた火は一気に燃え上がり無数の火の粉が風に散って舞い降りて魏の軍船に次から次へと燃えうつり一挙に火の海と化して魏軍は壊滅しました。この呉の赤い火の呪的な戦力に勝るために、小国・日本の軍王の名は火を消す「青い水の呪的戦力」をあらわして「載斯烏越」となったのです。つまり壱与・伊耶那美命と結婚した青年武将の名は小国・日本における最初の戦の王でありましたから、「軍行を開始する」と意味する「載斯」に呉軍の呪的戦力に勝つ「青い水」の「烏越」の2字が加わることになったのです。最初の2字の「載斯」は「軍行を開始する」と意味するゆえ、伊耶那美命の夫であった小国・日本の軍王・伊耶那岐命は後の第9代開化天皇(ワード)であったのです。

『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主の由碁理という方の娘の竹野比売と結婚された。また天皇の父の孝元天皇と結婚した継母の伊迦賀色許売命とも結婚した」と記述します。
 開化天皇が居住した宮殿名の「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字の「伊耶」と同じです(ワード)。ゆえに、伊耶那岐命・開化帝の正妃であった壱与・伊耶那美命は小国・伊耶国であった丹波出身の竹野比売だったのです。第二后の「伊迦賀色許売命」(ワード)の異名は、『古事記』に登場する「天照大御神」だったのです。そして、第10代崇神天皇は伊迦賀色許売命が第8代孝元天皇と結婚して生まれた子どもであったのです。『日本書紀』崇神天皇紀には、開化天皇の父の第8代孝元天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた子であることが示されています。ゆえに、第9代開化天皇と第10代崇神天皇は異母兄弟だったのです。
 ですから、『古事記』と『日本書紀』に登場する「天照大御神」は「伊迦賀色許売命と崇神天皇母子」であったのです。


 

次に図6として、「秋の銀河と夏の銀河」の写真を示します。
 


卑弥呼、伊耶那美命、伊耶那岐命、天照大御神母子が生存した3世紀、「秋の銀河」が中国と日本列島の天頂にめぐってきました。


3世紀、「秋の銀河」は「鳥」の形となり、私が「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河の中央は中国とわが国の北緯35度の天頂にめぐってきました。この銀河の形状を図7に示しますと「長方形の暗黒天体部に天頂緯度線を加える形」は日本地図にある「鳥居」の記号の形となります。図7(再度)に示すように「鳥居の形の上に翼を広げる鳥が居る」形ですから「神社の出入口に建てる門」は「鳥居」と名づけられたのです。

「鳥居」の原形は、図8に示すように「天頂緯度を測量する道具」であったのです。


欧米人にとって鳥居は日本文化を象徴するものです。3世紀、中国では[玄]のキャッチする習慣が失われてために、「鳥居」の形をした道具で天頂緯度を測量していませんでした。ですから、鳥居は中国文化を象徴するものとならなかったのです。


『魏志』倭人伝にある5ヵ所の記事は――倭人は[玄]をキャッチして大海を往来していた。しかし、魏と帯方郡すなわち魏の出張政庁があった朝鮮半島の一角の地域の使節は、[玄]をキャッチする習慣が廃れたために大海を渡ることができなかった。ゆえに、帯方郡の使節は倭の使節が往来する船に便乗して大海を渡った――と、次のごとく書いてあります。


1 古より以来、倭の使節は中国に到着すると、皆みずからを“大夫”と称した。


2 238年6月、倭は大夫の難升米を帯方郡に派遣した


3 243年、倭は大夫の伊聲耆・掖邪狗の八人の使節を派遣した


4 247年、倭は載斯烏越を派遣して帯方郡政庁に到着した。載斯烏越一行が帰還する船に
 帯方郡使の張政一行は便乗して倭に到着した


5 倭は大夫の掖邪狗等二十人を派遣して、帯方郡の使節・張政一行を帰還させた後、
さらに倭の使節一行は魏都洛陽へ目指して到着した


上記のごとく、倭の使節は大海を往来することができました。ゆえに、魏と倭は外交を結ぶことができて『魏志』倭人伝が著作されたのです。もしも倭でも中国と同様に北極星を最も重視して[玄]をキャッチする習慣を失っていたならば、倭人も大海を往来できませんでした。したがって、魏と倭は国交を結ぶことができず、その結果、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかった白紙、つまり『魏志』倭人伝はまったくこの世に存在しなかったという、いきなり突然まるっきりすべて空想の話になってしまいます。



『魏志』倭人伝は冒頭で「倭人国は、朝鮮半島の帯方郡の東南、大海の中に在る」と記述します。九州の港から朝鮮半島の帯方郡へ到着するときの大海の名は、「玄界灘」です(ワード)。「玄界灘」という名は「北極星では往来することができなかい。しかし、[玄]をキャッチする方法ならば往来できた陸地から遠く離れた波の荒い海」と意味します。


この北極星では往来出来なかった玄界灘に、図9に示す福岡県宗像市の沖ノ島があります。


玄界灘に浮かぶ沖ノ島は日本列島の西端に位置します。日本列島の東端には、伊豆諸島の神津島があります。沖ノ島と神津島は北緯34度15分で同緯度です。前に述べたとおり、当時の誤差が約20度=約1200分となる北極星で計測しますと、沖ノ島と神津島の同緯度は絶対に測量できません。しかし、[玄]をキャッチする方法であるならば沖の島と神津島が同緯度であることが測量できました。


沖ノ島は冬に雪が降りますが、亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪は降りません。この日本列島の西端と東端の気候をあらわしますと西が冷たく東が暖かい〔西冷東暖〕となります。



図10に示しますように、中国海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部の気候は暖かいです。ゆえに、中国の海岸線地域の北部と南部の気候をあらしますと〔北冷南暖〕となります。日本列島の〔西冷〕と中国海岸線地域の〔北冷〕は〔冷たい気候〕で合致し、日本列島の〔東暖〕と中国海岸線地域の〔南暖〕は〔暖かい気候〕で一致します。ですから、卑弥呼王朝は「日本列島は東に伸びるのではなく、中国海岸線の南の方に伸びる」という、方位が90度転回する錯覚の日本列島地理を制定したのです。


というのも、図4を示しますが、[玄]となる天頂点を通過する銀河部は東から45度となる東北の地平線または水平線から昇り、西から45度となる西北の水平線に没します。ゆえに、[玄]のキャッチを基軸として構築されていた鬼道(ワード)の学問においては近くの東西南北と遠く大海で隔てる中国の東西南北は、同じではなく異なると定義されていたのです。このため、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は真実となり、鬼道の学芸による真実は「厳粛な神のことば」でありましたから互いに争っていた諸国の王たちは戦争を止めて卑弥呼を女王に選んで「倭国」というわが国最初の国家を創設したのです。この事情を『魏志』倭人伝は「その国はもと男子を以て大王とした。七、八十年前からつまり西暦180年頃から倭地は乱れ、小国の国々は互いに攻め合ったまま数年が過ぎた。しかしもと大王がいた伊都国の男王と共に1人の女子を立てて女王に就任させた。この女王を名づけて、卑弥呼という。卑弥呼は中国の五帝時代や夏代の鬼道(ワード)を祭って立派に民衆の心を一つにまとめていた」と伝えています。卑弥呼が祭っていた「鬼道」は司馬遷が著作した『史記』五帝本紀と夏本紀に記載される、夏代初頭に中国から伝来した「天頂を通過する銀河部」を「神」と定める学芸だったのです。

 『魏志』倭人伝には方位を記す記事は全部で15ヵ所あります。この15ヵ所の方位記事は「日本列島は中国の海岸線の南の方へ伸びる」という転回日本列島地理にすべて合致します。たとえば、一例を挙げますと『魏志』倭人伝は「その道里を計るに、当に、会稽の東治の東に在るべし」という文があり、図11に示す転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の文の通りに会稽・東治の東にあって合理となります。


しかし、北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図だと日本列島は会稽・東治の東北にありますから矛盾します。


『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に合致する古地図が存在します。(図12)

この地図は1402年に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図」と名づけられ、わが国の龍谷大学大宮図書館に所蔵されています。この地図について学界は「中国では古くは、日本列島は南北に連なる島々の集まりと考えられていた。これゆえ、魏の使者は〔東〕に向かっているのを〔南〕へ向かっていると錯覚したものと考えられる」と指摘し、あるいは「『三国志』の著者の陳寿が誤記した」と主張します。


前述しましたとおり、転回日本列島地理は卑弥呼王朝が「近くと遠くの東西南北は異なる」と定める鬼道の学芸の原則のもとに制定した錯覚の地理であったのです。しかし、この意見を認めますと、1725年に没した新井白石から始まった今日までの日本古代史学の考え方は〔[玄]のキャッチ〕を排除した〔誤読〕を基盤にして立論したものであったことが証明され、日本古代史学の思考・立論原則や多くの学説が台無しになってしまいます。ですから、学者たちは混一疆理歴代国都之図に描かれる転回日本地図は、著者の陳寿や魏の使者の錯覚によるものと主張するのです。


しかし、図13が示すように、倭の小国・末盧国に比定される地に現存する「東松浦」「北松浦」「西松浦」という地名にある「東・北・西」は現在の日本地図では矛盾しますが『魏志』倭人伝の15ヵ所の記事には合致します。『筑後国風土記』は西松浦の東方にある6世紀に作られた岩戸山古墳の規模を「南と北は各六十丈、東と西は各四十丈なり」と記します。この古墳は森貞次郎氏の研究によって様々な事柄が明らかとなり、その森氏によれば「六十丈、四十丈の数値は正確であるが、ただ方位の記述の東西と南北だけが入れ違っている」と報告してすいます。このように、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定した、これは事実であったのです。


卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は、シナ天文の北極星を重視する考えにもとづき738年に全国に国郡図作成の命令が下されて改定されました。しかし、従来の[玄]をキャッチする習慣によって正しい日本地理観は定着しませんでしたので、796年にも国郡図の方位規定の重ねての修正の命令がなされました。この北極星を重視する国郡図の方位規定の改定によって、船乗りたちが[玄]のキャッチは不正確で命は大丈夫であるのかという不安がひろがって、894年に遣唐使の派遣の廃止が決定されました。



新井白石に考えを受け継ぐ現在の学界は『魏志』倭人伝の個々の記述は何ヵ所でも誤読してもよいと定めています。この考え方を「文献批判」と言います。


多くの学者たちは誤読を用いて卑弥呼が居住していた王国の名は「邪馬台国」だと主張します。歴史研究家の古田武彦氏は、『三国志』全体に出てくる[壱]86個、[台]56個の文字を一文字ずつ調べて、[壱]には[台]の誤記の一例も存在しないことを証明しました。この証明を認めますと、新井白石から以来の「卑弥呼が居住した王国の名は、邪馬台国である」と定めた意見は誤読の空論となりますので、その名を学者たちは変えようとしません。


『魏志』倭人伝には「倭の占いに用いる卜辞、すなわち占いに用いる文字は令亀の法のごとくであった」という文があります。「令亀」(ワード)とは「今から約3300年前の、亀の甲羅に刻む甲骨文字」のことです。ゆえに、『魏志』倭人伝は「倭の巫女や神官たちが占いに用いる文字は甲骨文字のごとくであった」と伝えていることになります。


また、『魏志』倭人伝は「魏の都や帯方郡や諸韓国と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は相違していたので、倭の小国・伊都国の港で点検し、確認して間違いのないようにしていた」と記載します。巫女の女王・卑弥呼は甲骨文字のごとき文字を使用していたのです。


前で述べたように、『魏志』倭人伝は「卑弥呼は鬼道を祭っていた」と伝えます。「鬼道」は司馬遷著『史記』五帝本紀と夏本紀に記載され、わが国には紀元前2070年に創設された夏代初頭の漢字すなわち夏音文字が伝来していたのです。


「卑弥呼」という3字を「ヒミコ」と読むと夏音となります。わが国に伝来した夏音文字よりも約750年後に出現した甲骨文字の上古音ですと「ピミカ」となります。


前述したわが国の古代中国文字研究の第一人者の白川静博士が著作した『字統』は9頁末から10頁にかけて「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘します。


「古紐や古韻の研究は、西欧の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその法則を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」


この「わが国の国語として残されている字音が、最古の漢字音」を有する文字が、わが国に夏代初頭に伝来した夏音文字だったのです。夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として多数記載されて現存します。また、『魏志』倭人伝の小国名や人名に用いられて現存します。だから、夏音文字は実在します。


『古事記』の序を書く太安万侶は、その序の冒頭の「それ混元すでに凝りて、気象未だに効れず。名も無く為も無し。誰かそ形を知らむ。しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作し」という文で「前期縄文時代になると乾坤すなわち天と地のイメージを示す銀河が天頂にめぐってきて、前期・中期縄文時代、そして後期縄文時代初頭の3時代の天頂の銀河を造化芸術の三つの神と崇拝して土器や土偶を作った芸術家たちによって、夏音文字の学芸は習得されました」と難解な文章で証言しています。


つまり、夏代初頭言い換えると、三つの造化芸術の神の時代のうちの最後の神の時代であった後期縄文時代初頭、わが国と同じく天頂を神とした夏音文字の学芸が伝来した、そしてわが国の銀河の形状を観て土器・土偶を作った芸術家たちによって夏音文字の学芸が理解されて習得された――と安万侶は述べています。
 安万呂は序の末部で――楷書の[日]と[下]の「日下」、名字の「くさかべ」と読む「日下」の2字と夏音文字「玖沙訶」の3字の字源となる銀河は同じ銀河であるから両者は同義であり、楷書の「おび」の[帯]の1字と夏音文字の「多羅斯」の3字の字源銀河は同じであるので両者は同義であると説明しています。



「わが国に夏音文字が明確に伝来していた」と伝える古文献が存在します、中国の正史『新唐書』日本伝です。この古文献は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍夏音を習う」と中国王朝に伝えた――と明記します。つまり、遣唐使は「壬申の乱の後、天武天皇と持統上皇は稍々夏音文字を習うすなわち少しだけ復興して、伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を抹殺して夏音文字の学芸に精通していた天照大御神が日本を作ったと捏造する偽書を作成しろと命じた」、この秘密を「後稍夏音を習う」と短い言で表現したのです。だから、この夏音文字の記事が明確に示すようにわが国には確かに夏音文字が存在したにもかかわらず、学者たちは〔誤読〕を用いて夏音文字を抹殺したことになります。


『新唐書』日本伝は「後稍夏音を習う」という文の後に「倭の名を悪み、あらためて日本と号す。使者自ら言う。国日の出ずるところに近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の并す所となる。」という文を続けます。


卑弥呼の墓を作る時に残酷な徇葬がおこなわれ、伊耶那美命が没した後に倭女王となった伊迦賀色許売命・天照大御神は卑弥呼の墓を作った時と同じく18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女を多数殺して伊耶那美命の墓に埋める徇葬を陣頭指揮しました。だから、遣唐使は「人民は二度も徇葬を決行した倭国の名を憎んだ。このため、人民の欲求にこたえて伊耶那美命から起源した日本という国号に改めることになった。小国・日本国は富士山が所在する駿河より東の常陸・茨城県までの東国であるから、小国・日本は日の出ずるところに近いことになる。徇葬を決行した倭女王天照大御神は、小国・日本の軍王であった伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚した。これゆえ、伊耶那岐命は小国・日本と大国・倭を併合して大王となった」という歴史について説明したのです。


持統上皇が天照大御神を最高神として祭る伊勢神宮を建造して間もない702年、上皇は「日神」の「天照大御神」から「日本」という国号が連想できるので、人民の欲求にこたえて「日本」という国号に改めて、中国王朝が「日本」という国号を承認するというお墨付きを得るならば後世の学者たちは天照大御神によって日本国は誕生したとまんまと騙されるにちがいないと国号の改変を企んだのです。


ゆえに、中国の正史『旧唐書』倭国日本伝には「ゆえに中国これを疑う」という記事があります。中国の外交官たちは「日本国という国号の改変はわざわざわが中国王朝の承認を得なくても、自国で決定すればよいことではないか。そして、その事情を記載する歴史書を作って、遣唐使が中国王朝に献上すれば、すむことではないか。にもかかわらず、なぜ遣唐使は歴史書を持たずに手ブラでやってきたのか? まったく解せない」と疑問を抱いたのです。また「入朝する者、多くは矜大、実をもって対えず」という記事もあるのは――遣唐使は持統上皇の企み・天照大御が日本国を誕生させたと捏造する謀略のために派遣されていたため、ほんとうのことを語ることができない良心の呵責で態度が尊大になっていたのです。なぜならば、当時、歴史書編纂スタッフは日本人そして人間としての尊厳を必死にまもって、上皇の命令に逆らい頑として偽書は作らないと抵抗していたからです。



「銀河」は「銀漢」または「天漢」ともいいます。「銀漢から作られた字」を省略して「漢字」となったのです。「天に多数の文字がありき」となったので、略して[天]と「文字」の[文]が加わって「天文」という語が生まれたのです。


この秘密を中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞下伝は、卑弥呼が祭っていた漢字の学芸=鬼道の学芸の重大な秘密である漢字の起源について次のごとく伝えます。
 

「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字を作った」


「仰いでは天象を観る」の「天象」とは、「文字となった秋の銀河と夏の銀河各部の形状」です。「地法」とは「銀河は東から西へと運行するが、中国の大地を流れる黄河の水は銀河の運行と逆向きに西から東へと去る法則」のことです。「鳥獣の文」とは漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称であり、「紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の“漢字の始祖”と崇拝される倉頡が発明した漢字作成原理の名称」です。「地宜」とは図10の地図のごとく「平面的に図化した地図の形」です。「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」とは「天頂観測する身近な周辺地域の東西南北と、遠く離れた中国大陸地図の東西南北は方位が90度転位する」と定めた――『魏志』倭人伝に記述された地理法則です。だから、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は鬼道の学芸で定められた地理法則に合致するものであったのゆえ真実であると確信されて、倭国の大乱は鎮まり卑弥呼を倭女王に選んだのです。また「もって神明の徳に通じ」とは「1分の緯度の差を測定できる[玄]をキャッチできる眼力と技を修得し、また銀河から文字が作られた学芸に精通する人格者となる」と意味します。


 司馬遷著『史記』五帝本紀は「五帝時代初頭の黄帝は鬼道を祭っていた」と書いています。ゆえに、『史記』によると鬼道が起源した直後に漢字の起源が起源したことになります。

“漢字の始祖”と崇拝された倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配しました。


ゆえに、倉頡は次に記す3つの掟を破った人物には神罰が下って即座に死刑に処せられると定めました。


(1) 秋の銀河と夏の銀河から文字が作られたことを暴露した人物


(2) 文字を容易に理解するため、文字となる銀河各部に名称を付けた人物


(3) 書いた文字が用済みになったならば文字を直ちに消さない人物または消し忘れた人物


 この最後の(3)の掟は、今から約3300年前に出現した殷代後半の甲骨文字によって、初めて破られました。しかし、甲骨文字は(1)と(2)の掟は厳重に守りました。だから、(1)の掟によって〔文字は銀河から作られた事実〕を現在の学者たちは知りません。また(2)の掟によって、文字が作られた銀河各部の名称は中国にもわが国にも存在しません。
 楷書は書いた文字を消さなくても良い文字でした。ですから、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字は楷書で表記されて現存することになったのです。

倉頡が定めた(3)の掟によって、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に現存する夏音文字を書いた資料は遺跡から出土しないことになりました。

 日本の遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と告げた702年の10年後の712年に完成した『古事記』の上巻に多数の夏音文字は記載されて現存します。
 ゆえに、夏音文字の学芸の伝来を科学的に証明できる遺跡・遺物は複数存在します。
これらの遺跡・遺物については後半にてとりあげます。
 ですから、夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて確かに実在する原初漢字です。
 なお、わがインターネットのブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の1回~167回までをもって、夏音文字はじめ楷書や他の古代の漢字は秋の銀河と夏の銀河の各部から作成されたことを逐一証明しました。ですから、すべての漢字は銀河から作られたのです。











第2章――家康の心願の証明





『魏志』倭人伝の末部には「卑弥呼の墓に百余人の奴婢を殺して埋める徇葬を憎悪する反乱が国中におきたが、壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させると反乱は終息して遂に倭国は定まった」という記事があります。


伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めました。ですから、反乱者たちは〔愛〕の女王・伊耶那美命が倭女王に就任したならば必ずや残酷な徇葬を禁止するにちがいないと信じて、戦うことを止めたのです。


この徇葬を憎む人民たちの反乱の平定は、強大な国家権力よりも伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念のほうが優っている、だから強大な国家権力に優るものが存在することを人民に知られることになったのです。


ところが、伊迦賀色許売命・天照大御神は――国家権力よりも〔愛〕の方が優るということは絶対にあってはならない――と、日本建国の〔愛〕の理念を認めませんでした。



『古事記』上巻の記事からして、伊耶那美命は、多分、250年頃に没したと考えられます。
 伊耶那美命の後に、天照大御神・伊迦賀色許売命が倭女王に就任しました。天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念が国家権力よりも優るなんてことを絶対に認めることができませんでした。ゆえに、伊耶那美命の陵墓を作る時に伊耶那美命が最も嫌った残忍な徇葬を決行して多数の青年と乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に葬って仕返しをしたのです。


この徇葬に怒った伊耶那岐命はクーデターを決意しました。伊耶那岐命がおこなったクーデターは、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述されています。


『古事記』が作成された8世紀初頭では、皇室が最も崇拝する至上神の天照大御神の聖性を汚すことは厳重に禁止されていました。これゆえ、702年12月に死去した持統上皇の命令に逆らって偽書作成を拒んだ『古事記』編纂スタッフは、智恵をしぼって皇室が嫌悪する「伊耶那美命」に[神]の1字を加えて「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記する奇策をもって、『古事記』を正史にしようと目論みました。


というのも夏音文字と楷書は銀河から作られたゆえ、安万侶が『古事記』の序で夏音文字と楷書は銀河から作られたことを解説し、上巻に多数の夏音文字を記載すれば読者は夏音文字と楷書の字源となった銀河各部の形状に変換して、「伊耶那美神命」の正体は「天照大御神」であることが解明できると、このような奇策を編纂スタッフは思いついたのです。
 



図14は、黄泉国訪問説話の舞台となった熊野三山をあらわします。
 天照大御神は伊耶那美命の墓を熊野本宮大社の旧社地の大斎原に築造しました。天照大御神は国家権力の強大な威力を示すために、多数の青年と乙女たちを殺して雷神にささげて雨乞いの犠牲にして豊かな実りと国家繁栄を祈願する徇葬を陣頭指揮しました。ゆえに、「多数の徇葬たちは」は八つの雷神すなわち「八雷神」と表記されました。
 伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む勇士たちの協力を得て、深夜にクーデターを決行しました。伊耶那岐命と日本兵たちは築造中の伊耶那美命の墓から棺を略奪し、日本兵たちが神輿に棺を載せて熊野路を逃走しました。伊耶那岐命と神輿を護衛する日本兵たちは手に手に持つ燃え盛る松明の灯で真っ暗闇の熊野路を照らして、神輿を担ぐ日本兵たちが転ばないようにして逃走しました。

伊耶那美命の墓を守る倭政府の大軍は伊耶那岐命一行の松明の灯をキャッチして追跡しました。このため、日本軍の本隊と熊野軍が待機する黄泉比良坂の坂本つまり――図14(再度)に示す現在の和歌山県新宮市に所在する速玉大社の境内に誘導される罠にはまり、伊耶那岐軍に撃破されて大敗しました。
 総崩れになって敗走する政府軍の兵士たちを尻目に、驚いたことに女性のか弱い足で天照大御神は大斎原から夜の熊野路を歩きつづけて伊耶那岐命を追跡してきました。彼女は捕虜となって、伊耶那岐命が居る千引石の前、すなわち図15に示す現在の和歌山県新宮市磐盾町にある神倉神社の御神体の“ごとびき岩”の前に連行されました。



 この場所で天照大御神は伊耶那岐命に離縁を言い渡されました。
 この時、倭女王失脚と離縁の屈辱で怨み骨髄に徹する天照大御神は「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓いました。この誓いは「亡き伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの子宮頸部が狭くなるように呪い祟って、一日に必ず千人の胎児の頭を狭い子宮頸管ではさんで絞め殺してみせる」と意味するものであったのです。

図16に、胎児の頭を挟んで殺すという女性の子宮頸管を示しました。


いっぽう、伊耶那岐命は「吾一日に千五百の産屋立てむ」と宣言し、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐと誓いました。


現在、伊耶那岐命が離縁を言い渡した千引石、つまりごとびき岩の前の空洞には、図15の写真が示すように、神倉神社の社殿が建っています。この神社の祭神は天照大御神です。ですから、『古事記』が「伊耶那岐命に離縁された」と書いた伊耶那美神命は伊耶那美命ではなく天照大御神であったのです。
 伊耶那美神命の正体は天照大御神でした。だから、元明天皇は『古事記』の献呈を即座に拒絶しました。このため、『古事記』は正史になれず外史となりましたが、真実の歴史を記載する反逆の歴史書『古事記』は、“愛、あざやかに永遠であれ”と願う人々に守られて今日まで残りました。



図17は熊野三山の牛王神璽です。


牛王神璽は〔八咫烏〕で文字をあらわします。この、〔八咫烏〕は日本のサッカーチームのシンボルマークです。
 三山の牛王神璽の中央には「日本第一」という文字があり、この「日本第一」の「日本」は勿論「小国・日本」をあらわします。
 牛王神璽の裏にある起請文は、もし誓約を破った時には、熊野の烏が1羽死に、そのために天罰が下ると信じられました。また、この紙の一片を違反者にのませると血をはくともいわれました。武家の間では、熊野の牛王神璽は「神仏に誓って、約束を違反しない。またウソでないことを誓う」場合の起請文として用いられました。


熊野速玉大社の祭神は伊耶那岐命です。熊野本宮大社の祭神は生母が伊耶那美命、父が伊耶那岐命の須佐之男命です。すべての漢字の字源を銀河の形状に置き換えると、『古事記』の上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民を苦しめる天照大御神・崇神天皇母子王朝を倒さんとして五人の王たちが伊耶那美命の墓であった熊野本宮大社の跡地に須佐之男命王朝を創建するクーデターを計画した。しかし臨終間際、伊耶那岐命・開化天皇は須佐之男命を枕元に呼びよせて、クーデターはお前を生んだ母・伊耶那美命の遺志に背くと説得しました。このために、現在の奈良県桜井市に所在する大神神社と狭井神社の間を流れる狭井川つまり天の安河の両岸で、須佐之男命軍と崇神天皇軍は向かい合って“戦わない”つまり不戦の誓いを結んだので、クーデター計画は失敗した――と記述してあることになります。ゆえに、熊野本宮大社の祭神は須佐之男命となったのです。
 那智大社の祭神は伊耶那美命です。伊耶那美命は高さ130mの日本一の落差を有する那智の大滝の精霊となりました。というのも、伊耶那美命の夏音名の「壱与」は「呉軍の赤き火の呪的戦力を消す大雨、天から降る大量の雨」と意味したからです。伊耶那美命は、青き水の呪的戦力を有する日本軍の先頭に立って、呉の遠征軍の赤き火の呪的戦力を奪う日本国の巫女王すなわち魔女だったのです。130mの高い滝口から落下する那智の大滝の大量の水は1万の呉の遠征軍の呪的戦力を奪った壱与・伊耶那美命をあらわしています。ゆえに、伊耶那美命は日本一の大滝の精霊となったのです。


那智の大滝の正面には、図18に示す三種類の神具が据えられています。

いちばん上段の神具は、牛王神璽の牛王をあらわして「牛頭天王」とよばれる神具です。滝に向かって右側の「酒器」について、“字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に著作された『説文解字』は[尊]の字源を「酒器なり」と解説します。『日本書紀』は偉人・英雄の尊称の「みこと」の字を「酒器なり」の[尊]の字であらわします。ゆえに、「一対の酒器」は「イザナミ尊」と「イザナキ尊」をあらわしていることになります。


図18に示す滝に向かって左側の神具は、〔富士山の形〕と家々の神棚にある〔水器〕です。〔富士山の形の神具〕は「徐福一行が不老長寿の霊薬を探し求めた時の目安になった蓬莱山・富士山」を示して「小国・日本」をあらわします。〔赤い皿〕は、〔愛鷹山やその南の浮島沼〕をあらわします。


図19の左側は、伊耶那美命を祭る那智大社の牛王神璽中央の下部にある宝珠紋です。

宝珠紋とその中央の[吉]の字は、図21右側の「壱」の篆文形の[壺]の中に入る[吉]をあらわします。ですから「壱与」の[壱]をあらわしています。結局、宝珠紋は「壺」が連想できる形にデザインして「水器」は「伊耶那美命を象徴する神具」であることをあらわしています。
 

図20に示した水器を手の平に載せてじっくりと見ますと「水器の蓋」は正真正銘「乳房」の形をしています。「水器の蓋」を飾るミゾは「胎児が通過する産道の壁にあるミゾ」をあらわし、このミゾは「子宮頸管を通過した胎児が産道をスムースに通過するための胎児の命をまもるミゾ」です。白い「水器の容器」は「子宮」または「妊婦のおなか」をあらわします。「毎朝、水器に入れて取り替える水」は「胎児の命を守る羊水」をあらわします。水器は“愛、あざやかに永遠であれ”と思いつづけた先人たちの心願をあらわす、〔愛〕の女王・伊耶那美命を象徴する神具であったのです。


『古事記』上巻にある「国生み説話」は――倭女王の伊耶那美命は、倭国と小国・日本の国作りの柱を日本建国の〔愛〕と〔豊かな農作物の実り〕であると人民に示すために、「四国」を「伊予之二名島」と名づけ、旧国の伊予の祭神の名を「愛比売」と定めました、今日の四国にある県名の「愛媛」は、倭女王の伊耶那美命が倭国と小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた歴史を伝えています。
 なお、伊耶那岐命・開化天皇は臨終間際にクーデターを断念するように須佐之男命を説得するときに、国生みで伊耶那美命が国作りの柱とした〔日本建国の〔愛〕の理念と豊かな農作物の実り〕を、「多賀」という語で表現しました。




高尾山古墳が作られた年から10年後の西暦260年、伊耶那美命と伊耶那岐命は死去し、大和朝廷の基礎を築いた天照大御神・崇神天皇母子は日本建国の〔愛〕の理念を抹殺する政策を遂行して人民を苦しめていました。その前年あたりから、前述しましたように――五人の王たちが天照大御神王朝を倒して熊野に須佐之男王朝を創設するクーデターを計画していた。しかし、伊耶那岐命の臨終間際の説得によって須佐之男命はクーデターを断念して天の安河・現在の奈良県桜井市を流れる狭井川の両岸で崇神天皇と向かい合って不戦の誓いを結んだ。ゆえに、クーデター計画は失敗した――と『古事記』は記載しています。

このクーデター計画の失敗を記載する『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に――クーデターを計画した五人の王のうちの一人、九州の宗像郡に住む王の天菩比命には7人の建比良鳥命が従っていた。この7人のうちの一人が「遠江国造の先祖の建比良鳥命」(ワード)であったと明記されています。


遠江の建比良鳥命は天照大御神と須佐之男命が結んだ不戦の誓いによってクーデター計画が失敗したために「なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、こうなるのだ」と悲嘆して、(1)卑弥呼が転回日本地理を立論して倭国を創設し、(2)伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を提唱し、(3)天照大御神が残酷な徇葬を決行した歴史を科学的に後世に伝えることができる図21に示す私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけたちょうど1千万坪の大鳥の形をした地上絵を、260年頃から290年頃までの30年間かけて作成しました。

この地上絵は学術的調査をすれば、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に記載された「建比良鳥命」によって、『古事記』上巻の日本神話はすべて事実を記述していことが科学的に証明されます。したがって、現在の「日本神話は歴史ではない」または「沼津は日本国発祥の地ではない」という意見は〔誤読の空論〕ということになります。



私は、“「卑弥呼」の地上絵”と名づける前は、「建比良鳥の地宜」と名づけました。前述しましたように、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」と記述するように、「地宜」(ワード╱右側の上)は「平面的に図化した地図の形」であるからです。「卑弥呼」の地上絵は、現在の浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存します。


この1千万坪の大鳥の形をした地宜によって、夏音文字も楷書も字源となったすべて銀河各部の形状に置き換えると、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀のほんとうの歴史が科学的に解明・証明できます。「卑弥呼」の地上絵の存在が知られたならば、歴代天皇王朝に直ちに建比良鳥命の一族は皆殺しにされることになる、最も重大な皇室と国家を転覆する大罪を犯すものであったのです。


図21の大鳥の顔の正面は「夏至の日の出の方角」を向いて「夏音文字」をあらわします。
 図22に示す「卑弥呼」の地上絵の西端は「象の鼻」の形に設計され、西部は「象の頭」の形に設計して「天象」(ワード╱右側の上)すなわち「秋の銀河と夏の銀河」をあらわします。

「卑弥呼」の地上絵の東部は翼をひろげる「鳥」の形です。夏至の日の出の方角に顔を向ける「大鳥の頭」は「足」の形にもなっており「足跡」をあらわします。東部の「鳥」と西部の「象」いわゆる「獣」と大鳥の頭部の「足跡」で、紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理の名「鳥獣の足跡」(ワード)をあらわします。

図23に示すように「卑弥呼」の地上絵・細江町の中央を流れる都田川の沖積平野は「胎児・乳児」の形となり、日本建国の〔愛〕の理念をあらわします。


図21に示した「卑弥呼」の南部の地宜を図24に示しました。



このように「卑弥呼」の地上絵の南部を注目しまと、3世紀に生存した建比良鳥命が1分の緯度の差を測定できる[玄]をキャッチできる眼力と技の持ち主であったことが明確にわかります。なぜならば、1千万坪にするための基礎となる三角土地測量の大三角における経緯度原点のA地点と滝峯不動尊は北緯34度48分で1分の誤差もなく精密に測量されているからです。「卑弥呼」の地上絵の北緯34度48分のA地点・滝峯不動尊と南限の北緯34度46.6分までの1.4分の地域に大鳥の翼と頭部が地図化されています。前述しましたように、当時の北極星の誤差は約20度・1200分でした。九州南端は北緯31度、北海道の北端は北緯45度30分くらいですから、両地の差は15度30分となり、当時の北極星の誤差の20度よりもさらに少ないです。このような誤差を有した当時の北極星では、天頂緯度線をキャッチして経緯度原点のA地点を測定して1分の緯度の差も生じずに滝峯不動尊を測量して作られた「卑弥呼」の地上絵は絶対に作成することはできません。だから、新井白石から始まった今日の北極星がある方角を〔北〕とする日本地図で考える邪馬台国学説とまた夏音文字は存在しないと断定する学説は正真正銘の誤読の空論であったのです。

図25に示すように、「卑弥呼」の地上絵の全長は約8.5km、両翼は約9kmです。



世界遺産のナスカの地上絵において最大の鳥の地上絵の大きさは図26の左側に示すように全長約300m、翼長は約90mです。

図28のごとく、両者の地上絵を同じ倍率で縮小して「卑弥呼」の地上絵を8.5cmの高さにしますと、ナスカの大鳥の地上絵の高さは0.3cmつまり3mmとなり、「卑弥呼」の地上絵ははるかに大きいです。
 現在の国土地理院が作成する精密日本列島地図は、経緯度原点を旧東京天文台の子午儀の中心に定め、土地三角測量して図化します。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵と現在の国土地理院の精密日本列島地図を作成する原理は同じということになります。


 1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(のちの徳川家康)は世にいう“清洲同盟”を結びました。江戸時代の幕臣の木村高敦が著した『武徳編年集成』は――清洲同盟において信長は「和議早速御許諾欣然タリ 此上ハ両旗ヲ以テ天下一統スベシ 今ヨリ水魚ノ思ヲナシ互ニ是ヲ救ワン事聊モ偽リ有ベカラズ」と書く起請文を作った――と記しています。そして――信長は小さな紙に[牛]という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康と同盟を斡旋した信元(元康の生母の於大の兄)の三人で茶碗に浮かべて飲んだ――とのことです。


この[牛]という字を書く小さな紙をちぎって飲んだ儀式は、伊耶那美命を祭る那智大社の牛王神璽に誓う血盟だったのです。


つまり、清洲同盟を結んだ信長と家康にとって天下統一はあくまでも手段であって、この世に生きる目的は夏音文字の学芸を復興して夏音文字も楷書も銀河から作られた事実を以て日本建国の〔愛〕の理念を復興する、つまり“愛、あざやかに永遠であれ”という心願を成就することであったのです。
 清洲同盟を結んだ翌年、元康は家康と改名しました。25歳の時、家康は姓を「徳川」と改める勅許を得ました。[徳]という字は「[玄]をキャッチする能力を修得して、すべての漢字が銀河から作られた学芸の教養が人格となる」と意味することを、家康は知っていたのです。家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀な人よ”と皮肉られ陰口をたたかれました。家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹しました。
 清洲同盟の9年後の1571年、信長は比叡山を焼き打ちにして山上山下の僧侶から老若男女まで数千人を殺しました。天台宗総本山の比叡山は「天照大御神は天台宗の本尊・大日如来である」という神仏習合説をとなえて日本国誕生史の真相の抹殺をはかり、皇室から多大な庇護をうけて日本の宗教界に君臨していました。ゆえに、伊耶那美命に熱烈に憧れる信長は“真実をまもるべき宗教が真実の歴史を葬って自らの利益を貪る所業はあまりにも醜悪”と怨念すさまじく怒って、比叡山を容赦なく焼き打ちしました。
 1582年6月2日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれました。
 信長の命が本能寺で尽きた時、家康は堺に滞在していました。家康は信長が亡くなったとの知らせを聞いて激しいショックを受け「手勢で明智光秀と一戦を交えて斬り死する!」と半狂乱になって従う家臣たちを困らせました。三河譜代の股肱の老臣の酒井忠次が家康を諌止して説得し、家康は茶屋四郎次郎や伊賀者などに助けられ、伊賀越えの間道を通って三河岡崎に帰還しました。

本能寺の変の4ヵ月後の10月、家康は甲斐・山梨県に進軍しました。ところが、徳川軍は信州・長野県から南下してきた北条氏直の軍と甲斐で遭遇しました。そこで家康は、北条軍との講和の使者に小姓組の一員としてつかえる弱冠22歳の井伊家24代頭首・直政を任命しました。直政は家康の期待にこたえて、講和の使者の大任を見事にやりとげました。この手柄を待っていた家康は、直政に武田家の遺臣74騎と坂東武者43騎を与えました。これが徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた、真っ赤な武具をまとって戦場を疾駆した“井伊の赤備え”です。



井伊直政は3世紀後半に「卑弥呼」の地上絵を作成した建比良鳥命の子孫です。先祖以来1300年余のあいだ「卑弥呼」の地上絵の北隣の引佐町井伊谷に居住した井伊氏は、「卑弥呼」の地上絵を守ってきました。直政を大将とする井伊の赤備えは夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念をなんとしても復興すると胸に秘めた信長・家康・直政の熱い心願を朱の地に井伊氏の[井]の字を金箔で押す真っ赤な旗であらわす、真紅の炎の軍団だったのです。建比良鳥命の末裔を大将とし、甲斐・武田家と坂東武者の小国・日本出身の武士たちだけで編成される、信長と家康の夢を実現する騎兵部隊だったのです。



関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、家康の命令のもとに譜代大名筆頭の地位についた井伊直政は近江滋賀県の佐和山城・現在の彦根市にあった城に入りました。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌1602年2月に42歳で亡くなりました。
 家康は信長に続いて再度同じ生きる目的を共有した直政を失いました。しかし、残された家康も井伊氏彦根藩の家臣たちも藩祖・直政の遺志を継ぐために、夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する事業に早速取りかかりました。この事業は3千万坪の大鳥の地上絵が〔[玄]のキャッチ〕で作られたと後世の人々が知ることができる一大事業であったのです。
 家康が近江彦根藩近隣の7カ国12大名に彦根藩を助勢するように命令しておこなわれた。

図27の3千万坪の彦根の大鳥の地上絵の作成事業は、1603年に着工して20年後の1622年に完成しました。家康は1616年に75歳の生涯を閉じていますから、彼がなんとしてもやりとげようとした大鳥の地上絵の完成は見ていません。



図27の大鳥の地上絵は、現在、滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存します。この彦根市の地図の形は〔夏至の日の出の方角〕を指して「夏音文字の学芸」をあらわしています。彦根城の南南東にある多賀大社の祭神は伊耶那美命と伊耶那岐命であり、神社名の「多賀」は伊耶那岐命が臨終際に須佐之男命に伊耶那美命の遺志をあらわした「多賀」(ワード)という語です。ですから、彦根の大鳥の地上絵は日本建国の〔愛〕の理念をあらわす遺跡であったのです。
 また、「愛知川」は「日本建国の〔愛〕の理念の歴史を知る川」ですから[愛]と「知る」の[知]の2字で表記される川となったのです。
 彦根の大鳥の地上絵の東端の〔グニョグニョと蛇行する境界線〕は〔鳥の翼の根元〕をあらわします。しかし、翼の形が表現されていません。ゆえに、702年の遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という言の「習う」は「復興する」という意味ですから、彦根の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字の学芸は習わずすなわち、復興せず」と京都御所に住む後水尾天皇に向かって夏音文字の学芸の復興を欲求する地上絵であったのです。
 日本地図を開くと目撃できる彦根市の地図の形は夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興しようとした信長・直政・家康の3人の心願を示す遺跡であったのです。
 家康は[玄]のキャッチによって日本国誕生史の真実が成立する――この事実を後世に伝える彦根の大鳥の地上絵を残しました。

1608年、家康は30歳の科学と芸術の才能に恵まれる駿府作事奉行の小堀正一を遠江守に取り立てて、「卑弥呼」の地上絵に貯蔵・保存された夏音文字や楷書が銀河から作られた学芸の研究を命じました。以後、正一は「遠州」と名乗り、彼は69歳で没するまで「卑弥呼」の地上絵と日々関わる生涯を送りました。
 家康は死去する前年の1615年に「禁中並公家諸法度」を制定し、その第1条を「天子御芸能ノ事、第一御学問也」としました。つまり家康は「天子、第一に大切なものはわが国のすべての生みの親である銀河から作られた漢字の学芸ですので、なにとぞこの学芸を復興してくださるようにお願い申し上げます」と欲求したのです。
 1616年に家康を没すると、歴代将軍と江戸幕府は家康の心願を成就することが宿題となりました。ゆえに翌1617年、幕府は小堀遠州を河内奉行に任命して、遣唐使船の[玄]をキャッチした航法の研究を遠州に命じました。
 1622年に彦根の大鳥の地上絵が完成すると、小堀遠州は近江奉行となり、彦根の大鳥の地上絵に注がれた学芸の全てを学び吸収することになりました。
 翌1623年、小堀遠州は京都の伏見奉行に任命され病床に伏せた1655年までの23年間、図28に示す桂離宮の庭園の作成に情熱を傾けることになりました。


世界的に有名なドイツの建築家のブルーノ・タウトは、桂離宮の庭園について「庭園の美は、いわば眼を思考の変圧器とする、眼は見ながら思考するのである」と指摘しました。桂離宮の庭園の地宜をはじめとする各部の作りは――すべての漢字は銀河から作られた、そして日本国は〔愛〕を掲げて誕生した――と表現するものであったゆえ、「眼は見ながら考える庭園」となったのです。
 桂離宮の庭園作りは家康の心願を成就させる事業であったのです。その証拠に、桂離宮の庭園南側が隣接する道路は丹波街道で、伊耶那美命が幼年期を過ごした丹波に通じています。
 桂離宮の中心的建物の御殿から天頂にめぐってくる銀河が昇る東北には、図29に示すように「卑弥呼」の地上絵に相似する庭園があります。


しかし、この庭園は彦根の大鳥の地上絵と同じく翼の部分が存在せず「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計されています。
 この「卑弥呼」の地上絵の形をした庭園の南隣は、図30に示す庭園中央の池となり、この池を眼は見ながら考えれば〔松の木〕の形に見えます。さらに、〔松の木の葉が生い茂る部分〕は信長の出身地・尾張が面する「伊勢湾」、〔松の木の幹〕は家康の出身地の三河の三河湾を表現しています。



図31に示すように、三河の三河湾と尾張の伊勢湾の地宜は、桂離宮の中央池の形に相似して「松の木」の形をしています。図31に示す遠江は直政の出身地であり、三河は家康の出身地であり、尾張は信長の出身地です。直政・家康・信長は、図31(再度)の上部に示した熊野那智大社に祭られる伊耶那美命に熱烈に憧れました。


図32に示す桂離宮庭園の西岸南部は乳房を吸う口の形に設計され、細い土橋を架けて大山島の西岸と繋がっています。――そして大山島の西岸は二つの乳房、土橋の細い幅が乳首に見えるように作られています。ですから、この部分は、「水器」と「伊耶那美命」をあらわします。



それゆえ結局、図30下部の「卑弥呼」の地上絵の形に似る庭園とその隣の「松の木」の形となる池とその南隣の「乳房」の形をした部分は、信長・家康・直政が伊耶那美命に憧れて夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興しようとした心願をあらわします。

桂離宮の庭園は、新井白石以来確立された〔文献批判〕は〔誤読〕であることを明確に示します。要するに、桂離宮の庭園は〔[玄]のキャッチ〕を排除した白石以後の学者たちの意見は〔科学が成立しない、誤読の空想〕であったことが証明できる施設です

 新井白石は1725年に没しました。白石は『魏志』倭人伝に誤読を加える方法で邪馬台国説を立論しました。この方法だと、皇室が最も崇拝する皇祖・天照大御神が夏音文字に精通して聡明であったことも抹殺され、皇室が夏音文字をもってわが国の学術と芸術に多大な貢献したこともまったく不明となって、元も子もないことになってしまいます。

これゆえ、学問が誤読によって支配されると日本国は滅びてしまうと心配した霊元上皇は夏音文字の学芸を復興すれば天照大御神が残酷な徇葬をおこなった歴史が文献を忠実に読解する学者たちによって暴かれることを覚悟の上で、将軍と幕府が欲求する〔夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興〕を承諾する決意をしました。
 その決意は白石が死去した13年後の1738年、将軍吉宗の協力を得て本格的に大嘗会を復興して、即位する天皇の王冠の意匠で示されました。


図33に示す天皇の王冠の上の飾りは〔「卑弥呼」の地上絵〕をデザインし、下の飾りの菅笠は〔乳房の形をした水器の蓋〕をデザインしたものです。


ですから、天皇の即位式に用いられる王冠の名は菅笠のスゲの[菅]と水器の蓋の[蓋]で「菅蓋」です。岩波書店の『広辞苑』の【かんがい】を開くと、図33の挿絵が掲載され、菅蓋は天皇が即位する時の王冠であることを説明しています。
 大嘗会が本格的に復興された1738年、霊元上皇の孫の家仁親王が桂離宮を所有していました。ですから、上皇は桂離宮の庭園を眼で見ながら思考して天皇即位式の王冠の意匠を夏音文字の学芸をあらわす「卑弥呼」の地上絵と日本建国の〔愛〕の理念をあらわす水器の蓋で表現することにしたのです。
 今上陛下も、この王冠を高々と掲げて天皇に即位しました。
 天皇の王冠もまた〔[玄]のキャッチ〕を排除する意見は〔誤読の空想〕である実体を示す史料です。
 現在の皇室は3世紀後半に生存した天照大御神から始まります。
 皇室と同じく3世紀後半に[玄]をキャッチして「卑弥呼」の地上絵を作った建比良鳥命から始まる井伊家は、現在、彦根市に住んでいます。

日本を代表する天皇家は天皇の王冠で、もういっぽうの名家の井伊家も「卑弥呼」の地上絵で、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻にある日本国誕生史に関するすべての記事は〔[玄]のキャッチ〕に則って考えれば真実の歴史を知ることができると太鼓判を押します。


まとめ――


沼津は日本国が産声を上げた地であった




 新井白石以来今日まで290年、学者たちは『魏志』倭人伝に相変わらず〔文献批判〕を加え続けています。前述しましたように、当時の北極星の緯度測定の誤差は約20度約1200分であり、『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作られた「卑弥呼」の地上絵は緯度の誤差が1分の[玄]のキャッチでなければ絶対に作成することはできません。そして当時、中国と同じく[玄]をキャッチする習慣が日本列島でも廃れていたならば、大海を往来することが出来ず魏と倭は国交を結ぶことができなかったので、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていないことになり、「エッ! そんなことがありえない」という荒唐無稽の話となります。
 古代史学において「文献批判」が「誤読」であった確かな有名な事例があります。

紀元前1200年前後におこったトロイ戦争を紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスが英雄叙事詩『イリアス』に記述しました。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定しました。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見しました。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であった事実が証明されました。


つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述は真実となり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読の空想であったことが事実となる――このような絶対法則が存在します。


わが国には、〔文献批判〕でウソと決めつけられた『魏志』倭人伝の記事は事実を伝えていると科学的に証明できる「卑弥呼」の地上絵が存在します。トロイの戦争と『イリアス』には約350年の隔たりがありますが、『魏志』倭人伝と「卑弥呼」の地上絵は同時代の3世紀後半に作られました。ゆえに、新井白石以来今日まで学者たちが『魏志』倭人伝に加えた〔文献批判〕は〔誤読〕だったのです。


 学者たちの「『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の個々の記述は誤っている、信用してはならない」と主張する「文献批判」によって、卑弥呼の地上絵・彦根の大鳥の地上絵・桂離宮の庭園・天皇の王冠に保存された〔[玄]のキャッチ〕が排除されました。これが原因で『魏志』倭人伝末部と『古事記』上巻に記述された壱与・伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を提唱した歴史と沼津が日本国発祥の地であった真実が、学問上においては存在しないことになったのです。


でも、3世紀以来、日本誕生史を抹殺しようとした皇室と残そうとした人民が対立した歴史が日本古代史を貫通しています。そして〔愛〕を掲げて日本国が誕生した歴史は皇室でも奪うことができなかったのです。何人にも奪うことができない歴史であったのです。
 この日本国は、孫権の呉軍は大海を往来できるにちがいないと考えた勘違いと、卑弥呼と東鯷国王の呉軍は再度遠征してくるにちがいないという勘違いによって誕生しました。この卑弥呼と東鯷国王の必ず呉軍は再度遠征してきて戦争になるという想定は空想であったことも原因して、信長・家康・直政が復興しようとした日本国誕生史は、今日、学者たちの〔誤読〕によってまったくこの世に存在しないかのごとくの状態となっています。



『後漢書』倭伝末部にある東鯷国の記事に登場する「蓬莱の神仙」は「空高くそびえる仙人が住む美しい山」ですから「富士山」となります。したがって、呉の遠征軍は伊豆半島南方の海から蓬莱の神仙・富士山が見えるので、図34の左側にある駿河湾に進入して浮島沼、この沼津へ目指したことになります。


1984年7月25日に発行された静岡県考古学会編集『静岡県のあけぼの』の60頁には、石川治夫氏が次のごとく「八兵衛洞遺跡」について説明しています。

「八兵衛洞遺跡は沼津市の愛鷹山中腹に位置する弥生時代後期末の集落遺跡である。標高は約160mと異常に高く、通常の低地遺跡とは性格が異にしているようである。昭和53年に沼津市教育委員会によって発掘調査が実施されたが、三つの屋根上に84軒の竪穴住居址が発見された。しかしながら、遺物の量は少なく、器形復原できるような資料は極めて少ない。当時の住人が村を廃して移動する際に、使用できる物を持ち去ったと思われるのである。だが、1点の青銅製の銅鏃が住居址から発見されていることから、貧しい村ではなかったようである。
 愛鷹山麓の高所には同時期の遺跡が多数存在するが、なぜこのような生産性の低い短期間大規模な集落群を営んだのか大きな謎となっている。」


このような愛鷹山麓の大規模の集落群は、駿河湾上に現れる呉の遠征軍を見張る日本軍の砦であったのです。というのも標高160mだと、駿河湾が一望できるからです。また、瀬戸内海地方における弥生中期~後期の生産性の低い山上集落址は軍事的集落であったと幾人かの学者たちが指摘します。この点からしても、弥生時代後期末すなわち3世紀の愛鷹山麓の山上集落は軍王・伊耶那岐命が統率する軍事的集落であったと考えられます。また、大規模な集落群にもかかわらず遺物の量が少なかったという特徴は厳重な軍事規律のもとに移動したと示しますから、愛鷹山麓の84軒の竪穴住居址は日本防衛軍の軍事的集落であったのです。浮島沼は呉軍と日本軍の決戦場となると予測されて女王の伊耶那美命と軍王の伊耶那岐命は234年頃に赴任し、『魏志』倭人伝の247年の記事からして壱与は244年頃に倭女王に選ばれたために愛鷹山麓の兵士たちは伊耶那岐命に従って倭国へ移動したのです。ゆえに、愛鷹山麓の集落群は短期間の施設となったのです。

愛鷹山麓同様に、浮島沼の低湿地帯に設営された「雌鹿塚遺跡」と呼ばれる弥生時代後期末すなわち3世紀の遺跡からも銅鏃が発掘されています。この遺跡もまた、日本軍の砦であったと考えられます。


ですから、沼津の愛鷹山麓と浮島沼一帯は小国・日本が産声を上げた歴史的な場所であったのです。沼津は日本国誕生のドラマの中心地であったのです。沼津は先人たちが“愛、あざやかに永遠であれ”と願った日本建国の〔愛〕の理念の発祥の地であったのです。


現在、八兵衛洞遺跡はじめ愛鷹山麓の集落群や雌鹿塚遺跡について、ほとんどの沼津市の市民は知りません。そうしますと、高尾山古墳も壊されて道路になって記念碑みたいものが作られても市民は無関心となり、数年後にはその存在をすっかり忘れてしまうことになりましょう。


しかし、皇室も抹殺しようとして抹殺できなかった日本国誕生史に関する遺跡を過去に保存しなかった挙句、なんらかの関係があったと考えられる高尾山古墳をもこわしてよいものでしょうか。


沼津市活性化の起爆剤になるにちがいない古墳をこわさずに保存する方法は、とりもなおさずに日本国が〔愛〕の建国理念を掲げて誤った方向に進まないあるいは迷って漂流しない、沼津が日本国が発展する未来の扉を開く方法だとは思いませんか。


われわれは、日本国が産声をあげた誕生期に作られた高尾山古墳を保存する運動を、信長のように、直政のように、家康のように、そして徇葬を憎んだ先人たちのように伊耶那美命に憧れて、決起しようではありませんか――日本人が日本人として生きるために、声を挙げて真実の歴史をまもろうではありませんか。


この歴史は〔[玄]のキャッチ〕によって真実となり、すべての日本人はこの歴史を知る権利があります。





結論
 北極星では絶対に大海を往来出来ません。古代は[玄]をキャッチして、大海を往来していたのです。
 北極星を重視するシナ天文のために、魏と帯方郡の使節は大海を往来することができませんでした。しかし、倭の使節は〔[玄]をキャッチする方法〕で大海を往来できましたから、『魏志』倭人伝はこの世に存在することになったのです。


学者たちは「トロイ戦争は無かった、ホメロスが創作した空想である」と決めつけましたが、シュリーマンが『イリアス』の記事のとおりに発掘して歴史の真実となりました。
 同様に、[玄]のキャッチで作られた卑弥呼の地上絵によって、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を提唱したことは事実となり、沼津は日本国発祥の地となります。なぜならば古代史の真実は遺跡・遺物と古文献の記事の一致によって成立する、これが絶対法則だからです。だから、この絶対法則によって、沼津は日本国発祥の地となります。
 

最後に、『沼津市教育委員会2012』より転載した高尾山古墳の平面図を写してください。


この古墳は緯度軸と子午線にほぼ合致します、だから〔[玄]のキャッチ〕で作られたことになります。言い換えると、当時の北極星の緯度の誤差は約20度約1200分でしたから、北極星では高尾山古墳は絶対に築造できません。


従来の学説は〔[玄]のキャッチ〕を排除して立論します。しかし、〔[玄]のキャッチ〕を排除して立論しますと、北極星では正確に緯度軸と子午線を測定できなかったゆえ緯度と子午線が測定されるす高尾山古墳はこの世から無くなって消滅しますので荒唐無稽な空想話となってしまいます。
 高尾山古墳の埋葬施設から鏡・勾玉・剣(細戈)・33本の銛などが出土しました。この遺物と『古事記』上巻冒頭の伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話末部の「水蛭子を生む。次に淡島を生む」という記事は合致して、沼津が日本国の発祥の地であることを今に伝えます。ですから、沼津は日本国の発祥の地であったのです。今、私はこのレジュメを取り急ぎ作成している最中です。そして、皆さまにまた披露しようと思っています。




2015年7月19日記す
 大 川 誠 一






●参考文献

『新訂 魏志倭人伝他三篇――中国正史日本伝(1)』石原道博編輯者 岩波書店1985年
『魏志倭人伝』山尾幸久 講談社 1981年 第18刷 
『中国の歴史 第三巻』陳舜臣 1986年 初版第1刷
『改訂新版 図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕学習研究社 1982年

改訂新版第1刷 

フリー百科事典『ウィキペディア』北極星、ポラリス(恒星)
『史記(上)』野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦訳者 平凡社 1981年
『字統』白川静 平凡社 1985年 初版第8刷
『古事記 古代歌謡』荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳者 小学館 1981年 第10版
『新編日本古典文学全集1 古事記』山口佳紀・神野志隆光校注・訳者 小学館 1997年 第1刷第1版
インターネットブログ「龍谷 2005 №60」の『混一疆理歴代国都之図』
『日本古代史の旅3 邪馬台国』千賀四郎編集 小学館 1975年
『鑑賞 日本古典文学 第2巻 日本書紀・風土記』角川書店 1981年 5版
『邪馬壹国の方法――多元的古代の成立(上)』古田武彦 駸々堂 1983年 第1刷
『新訂 旧唐書倭国日本伝 他二篇――中国正史日本伝(2)』石原道博訳 岩波書店 1986年 第28刷
『易経(下)』高田真治・後藤基巳訳 岩波書店 1980年 第25刷
『ナスカの地上絵・完全ガイド』「地球の歩き方」編集室 ダイヤモンド・ビッグ社 2010年 初版
歴史群像シリーズ⑪『徳川家康』学習研究社 1989年
『小堀遠州』森蘊 吉川弘文館 1967年
『画帳 桂離宮』ブルーノ・タウト著╱篠田英雄訳 岩波書店 1981年
フリー百科事典『ウィキペディア』(禁中並公家諸法度) 2009年4月15日
『日本の庭園美 6――桂離宮』岡本茂男 集英社 1989年 第1刷
別冊歴史読本『図説 天皇の即位礼と大嘗祭』新人物往来社 1989年
『静岡県のあけぼの』静岡県考古学会編集 1984年
『静岡の原像をさぐる』静岡県埋蔵文化財調査研究所 1989年

『沼津市教育委員会2012』より転載した高尾山古墳の平面図
2015年7月11日に静岡大学人文社会科学部教授・篠原和大氏の講演で配布された資料


●著書・論文

『怒りの魏志倭人伝論』自費出版 1983年(大川誠市 名)
「倭に文字あり」『歴史研究』第333号 新人物往来社 1989年 (大川誠市 名)
『日本原初漢字の証明』六興出版 1990年 (大川誠市 名)
『卑弥呼の列島地図』六興出版 1991年 (大川誠市 名)
『天球の邪馬台国』六興出版 1991年 (大川誠市 名)

『卑弥呼の金印探し』徳間書店 1994年 (大川誠市 名)
「邪馬壱国出雲地方説」『歴史法廷』8号、『歴史法廷』特別編輯「日本の謎」世界文化社

1995年 (大川誠市 名)
『聖刻文字とABCの字源』自費出版 2008年
『天皇の王冠』自費出版 2010年
『続天皇の王冠』自費出版 2010年
『日本国誕生史の復興』自費出版 2011年
『邪馬台国説は日本を滅ぼす』幻冬舎ルネッサンス 2011年

0コメント

  • 1000 / 1000